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502.【ペア活】高校の卒業式以来会っていないクラスメイトに40年ぶりに会う

まったく想定していなかったけれど、飛び込んできたのは、後ろ姿だった。
Tちゃんは、私鉄の改札に向かって立っていたのだ。

すごい。
後ろ姿でわかった。

(Tちゃんだ)

人は、その人のことを、顔で認識したり、覚えたりしているのではなく、たたずまいを感じ、受け取り、記憶している、ということを実感した。感動した。

Tちゃんとの時間は、冷凍保存された18歳の時間が、自然解凍されていくような心地で、上書きされていない記憶に出逢えた。新鮮。

自分でも忘れていた、自分の振動に出逢い直すようなひととき。

(本文より)

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高校のクラスメイトと、突然会うことになり、駅で待ち合わせることに。
卒業式以来一度も会ったことがない。引き算をして、40年という月日に驚く。

卒業式以来会ったことがない、というのは、〈少し距離がある友人〉ということだ。
具体的に説明すると、仲良しの2人組が2組集まった4人グループAとBがくっついて8人になったグループの、Tちゃんは元A、私は元Bという関係だ。

当時も、グループ内では話すけれど、2人きりだと何を話したらいいのかわからない、という感じで、家に電話をかけて話したことも、2人でどこかに遊びに行ったこともない。

だけど、私には、Tちゃんとの忘れられない思い出がある。
どうして、Tちゃんに借りることになったのかが思い出せないのだけど(おそらく、その教科を選択していたのが、グループでTちゃんだけだったので)、倫理社会のノートを貸りたことがあるのだ。
ノートを開いて、びっくり。

(あとにも先にも、あんなにきれいにまとめられたノートを見たことがない)

そのときの倫理社会の先生は、とにかく板書の字が汚く、ただ、話しながら単語を羅列するだけだから、それをそのままノートに写しても意味不明。
ところが、Tちゃんは、板書以外に、教科書の内容や、先生が話したことなどを補記して、赤や青のボールペンを使って色分けをして、参考書みたいなノートを綴っていたのだ。
しかも、とってもきれいな字で。

私は、倫理社会の授業は、ほとんど眠ってしまっていて、教科書もノートも、授業とは関係のない落書きだらけだったので、

(ノートって、こういうものなのか!)

という覚醒と感銘でいっぱいになり、そのときから、私はTちゃんを心の底からリスペクトしている。
毎年、年賀状を書くたびに思い出すので、40年経っても忘れることはないし、その思いは変わらない。

そんなTちゃんに会うので、ドキドキだ。

Tちゃんは、陸上部で、ピアノと歌がうまくて、志があり、進路は看護学校で、国立大学の付属病院に就職。
数年後、お医者さんと結婚し、転勤で静岡の国立病院に勤務したご主人とともに、しばらく大阪を離れていた。

私が結婚したとき、Tちゃんは大阪にいなかったので、お祝に、きれいな櫻の花びらが散らされた風呂敷をいただいた。
自分がいただいて、とても重宝したから、私にも贈りたい、ぜひ使ってほしいと、添えられたお手紙に書かれていた。

当時(今も?)、風呂敷に包んだお中元を携え、和服でご挨拶に伺う女優さんのCMが流れていたし、結婚にあたって、大先輩のTちゃんの心遣いに背筋がのびる想いだったけれど、結局、私は和服でご挨拶に行くことも、風呂敷で包んだ品物を持参することもなく、そのときにいただいた風呂敷は、美しい箱に入ったまま、一度も使ったことがない。大切な礎となり、もはや使えない。

この40年の間、8人のうちの6人とは何度か会っているのだけど、Tちゃんとは、タイミングが悪かったのか、年賀状のやりとりだけで、大阪に戻ってきてからも、会っていないまま月日が流れている。

なので、本当にドキドキ。
思い浮かぶのは、高校3年生の文化祭で「家なき子」の劇の練習したときのTちゃんの姿(Tちゃんは犬、私は、あひるのお母さん)や、卒業アルバムの弾けるような笑顔。
おそらくTちゃんも同じだと思う。

(ひゃーーー)

なんともいえない気持ちになり、思わずフェイスブックにつぶやいてしまったほど。

どんな服を着て行こうか迷い、きっと、Tちゃんは「奥様スタイル」で登場するはずなので、それに合わせて…… などと考えていたら、いつまでたっても決まらない。

その後、父の介護の状況が、どんどん変わっていき、当初は、ゆっくり話せるお店で会食をするはずが、「うちに来る?」の言葉で、新築4年のTちゃん邸に伺うことになり、デパ地下でいろいろ買って、おうちアフタヌーンティーをすることに決まったのが数日前。

待ち合わせは、JRと私鉄と地下鉄が連絡していて、Tちゃんと私の家をつなぐ路線にある、駅直結のデパートの入口付近に変更となった。

私は「JR」、Tちゃんは「地下鉄」に乗って、この駅に来る。
余裕で到着しているはずだったのに、電車が延着し、待ち合わせの時間を少し過ぎてしまったので、視野の中にTちゃんを探しながら、小走りで近づいていく。

まったく想定していなかったけれど、飛び込んできたのは、後ろ姿だった。
Tちゃんは、「私鉄」の改札に向かって立っていたのだ。

すごい。
後ろ姿でわかった。

(Tちゃんだ)

人は、その人のことを、顔で認識したり、覚えたりしているのではなく、たたずまいを感じ、受け取り、記憶している、ということを実感した。感動した。

(鳩胸で、エックス脚ぎみで、足がすらりと長いTちゃん)

もちろん、髪型はちがうし、ややふくよかにはなっているけれど、その「後ろ姿」を見たとき……

試合前だったのか、記録会だったのか、陸上部のユニフォームを着て、トラックに立っていたTちゃんの姿が浮かんできたし、運動場の土ぼこりや、風や、匂いが起ち昇ってきたし、また別の場面が現れ、放課後のクラスのざわめきが蘇ってきたし、高校3年生のときのことが、ムービーのように回りはじめた。驚く。

記憶というのは、失われているのではなく、きちんと保存されていて、きっかけがあれば、いつでもあふれだしてくる、ということを実感した。

(この後ろ姿、ぜったいにTちゃん!)

後ろから、トントンと肩をたたいて、前にまわりこんで、ご対面。

「Tちゃーーーーん!!」

(正解! Tちゃん!)

ほんとうに、変わっていなかった。
いや、高校生の顔と同じなわけはないのだけど、目に見えるものではない、本質の部分。そこが、変わっていない。
そういうことなのだ、と感じる。

デパ地下でいろいろ買い込んで、おうちアフタヌーンティーをするはずが、雨も降っておらず、手すりの工事が終わったばかりで、父がショートステイを利用していて、急いで帰らなくてもよくなったので、いったんTちゃんの家でおしゃべりしたあと、Tちゃんの家の近くのビストロでランチをすることに、急遽変更。

昔の長屋をリノベーションした複合施設にある、すてきなお店で、張り切ってフルコースにしたら、ふたりともお腹がいっぱい。

その後、Tちゃんの家に戻っても、持ってきたお菓子をあけることもなく、ひたすら、Tちゃんが毎日沸かしているという、おいしい黒豆茶をいただきながら、おしゃべりが尽きない。

Tちゃんとの時間は、冷凍保存された18歳の時間が、自然解凍されていくような心地で、上書きされていない記憶に出逢えた。新鮮。
自分でも忘れていた自分の振動に出逢い直すようなひととき。

高校卒業後のあれこれは、進学、就職、結婚、出産、子育て、介護、看取り……。
とても数時間では語りつくせるものではなく、今、夢中になっていることも含めて、次回に持ち越し。

Tちゃんがベランダの菜園で育て、収穫したじゃがいもとにんじんをいただいて、帰宅。
翌日、さっそく、蒸していただく。

今年、還暦なので、過去からの風がいろんな場所から吹いてくる。

(他者の記憶の中で息づいている自分に、元気をもらう)
(チューニングは、そこ)

けっきょく、還っている。そのとき、好きだったことに。
Tちゃんも、私も。

浜田えみな


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