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アートは期待するほど ❝役に立たない❞。でも、❝役に立たない❞ からこそ ❝役に立つ❞ かもしれない。

以前、「アートは役に立つ。だから支援が必要だ」というロジックに遠回しの苦言を呈したことがある。

目的やゴールが決まったアートプロジェクトは、果たしてアートなのか?という違和感。…プロセスの記録や説明の仕方をちょっとかけ違えると、「期待されている効果を出すこと」がアーティストの活動のゴールとなってしまい、そのゴールを達成できたか・できなかったかで、アート活動の価値が決められてしまうことが起こり得ます。

"アートは役に立つ”へのささやかな反抗」本文より抜粋、太字ママ

絶対何かあるはずなのに、特定の人にはそれが伝わらない。そんなジレンマは、関係者なら誰でも一度は(どころか常に)抱くこと。

本当は、わざわざ価値を「変換」しなくても、芸術文化は重要なもの、人類の権利だよね、というロジックで伝わればいいのに、と思うことがあります。
…でもそれを、言語化しないと、伝わらない世界もあるのかもしれない。…何か見える効果がないとだめだ、というような状況になってしまっているのかもしれない。

落合千華「芸術文化が人々に必要な理由」本文より抜粋、太字筆者

そんなことを再認識するできごとがあったので、最近の発見とともに、自戒を込めて再度書き留めておく。

1、アート活動をする、たくさんの価値

九州大学の中村美亜さんが翻訳した、英国政府機関の研究成果をまとめた報告集『芸術文化の価値とは何か ―― 個人や社会にもたらす変化とその評価』に、アート活動における価値に関する最新の考察がまとめられています。

第1部のイントロダクションには、文化芸術の価値を論じる時、よく議論の俎上にのぼる「道具的価値」「本質的価値」の二項対立、そしてその二項対立を乗り越えようと派生してきた様々な新しい定義の歴史が描かれています。

「道具的価値」とは、啓蒙効果や経済効果など直接の投資効果が分かりやすい価値のこと、「本質的価値」とは作品自体の卓越性や質、道徳や倫理など非物質的な価値のことを指します。とりわけ経済不況や政治不安を背景とした1980年代から、英国では文化芸術の「道具的価値」つまり「役に立つかどうか」が強調されるようになったと論じられています。

本書はさらに、この二項対立を乗り越える試論として、個人の一人称の語りにアプローチすることで浮き彫りになる多様な感情・感覚・変化のプロセスに着目しながら、特にプロジェクトの質的効果を横断的に評価する視点を提案しています。そう、アートの価値は多角的で多様!一概に「役に立つ・立たない」で論じられるものではないのです。

2、アーティストの仕事

そもそも、アーティストによって行われるアート活動とは何か。アーティストの仕事は、あくまでもその人の突出した才能を生かし、表現・創造することです。その人が何かをしているだけで、何か心が惹かれる、見入ってしまう、自分も触発される、そんな力を放つ活動です。

「社会に役立つこと」を要求された途端、アーティストが息苦しくなるとすれば、そこには「あそび」の不足や禁止が関係していると思われます。

アートを何かに役立てようとするプロジェクトには、…「あそび」の環境が不足しがちです。
なぜならお金を出してくれるパトロンにあらかじめ青写真を見せて納得してもらう必要があったり、純粋に「役立つ」アウトプット(・・・それはほとんどクライアントワークなのではないか?と思うほどの精度での仕事)を期待されていたりして、失敗は許されず、必ず成果を出さなきゃいけないから。

”アートは役に立つ”へのささやかな反抗」本文より抜粋、太字ママ

ただし2024年現在、趣味の延長やパトロン的なシステムの中でアート活動を支えるコミュニティの中心メンバーであった団塊世代がいよいよ80代にさしかかり、人口減少社会の一途をたどる日本では、美的探究や特定の層にだけ向けた表現活動が評価される基盤はさらに縮小しています。

いま、全国の美術館やコンサートホールなどの文化施設が口をそろえて課題ととらえるのは「来場者の高齢化」と「来場者数の縮小」です。それにともなって施設の経営状況も悪化し、国立博物館でさえクラウドファンディングで事業予算を確保する時代です。

来場者数や収支など、数字(量的指標)だけで事業評価を行う自治体や指定管理団体も多いために、「利用者が少ないなら美術館はいらない」「コストのかかる事業はやらなくていい」と、施設自体の存在意義を低く見積もったり、予算を削減したりする動きが加速しています。
コロナ禍はいっそうこの現状を深刻化させました。今後10年の間に、特に地方に残る文化施設はどのくらいあるのだろう、と本気で危惧しています。

というわけで、真に美的探究だけに心血を注ぎたいアーティストにとってはとても心苦しいことですが、それだけではアーティストが自分自身の活動領域を狭め、首をしめるだけなのです。

アーティストの創作に地域課題や社会課題との接点が求められるのは、これまでのアート活動がアクセスしてこなかった新しい層にアプローチすること、そこから生まれる新しい価値を発掘することが、今後のアート活動の基盤を確保することにもつながるからなのです。

3、制作者・キュレーターの裏方仕事

しかし、アーティストの作品や活動を誰に届けるか、その価値をどう表現するかは、アーティストだけの仕事ではありません。むしろ、アーティストが承諾する範囲で、美的探究を中心に置いたアート活動を社会にひらくデザインをすることはいくらでも可能だといえます。

アーティストが窒息せずに、のびのびとその才能を発揮できるように支える仕事。そして、その活動への評価を高めるための仕事。それが、プロデューサー、制作者、キュレーターと呼ばれる人たちの仕事です。広くはアートマネジャーともいわれます。

アーティストが創作に打ち込める環境と予算を確保し、創作のプロセスや成果をしかるべき層に向けて発信すること。歴史や文化を調査し、その活動が評価に値する文脈をつくり、ファンを得ること。難しいし、やり始めるとキリがないですが、やりがいのある仕事です。

世界に比べて小規模な日本のアート業界では、この裏方仕事を支える人材が圧倒的に足りず、本来制作者・キュレーターが担うべき仕事をアーティストが創作活動と並行して行っている場合も多い現状です。労働環境も良いとは言えません。

これでは、優秀なアーティストや制作者が充実した環境を求めて都心や海外へ拠点を構えるのも無理はないです。なんだか、本当にかなしくなる。

4、やっぱり再度、プレイフル・シンキング(Playful Thinking)に基づいたクリエイションを。

最近の活動で、改めて気づかされたことが2つあります。

1つは、やっぱり「あそび」の大切さ。きっかけは、クリエイションのために真面目に議論をしている大人の横で、次々と新しいあそびを発明して楽しんでいる、子どもたちの姿でした。

その日子どもたちは、狭い廊下を使って「だるまさんがころんだ」を始めました。そのかけ声は、いつの間にか「だるまさんがラーメン食べた」「だるまさんが疲れた」「だるまさんが犬を散歩した」に。ジェスチャーをして、一番似ていない人が鬼に捕まるというルールです。

聞くところによると、すでに「だるまさんの1日」として確立されている遊び方だそうです。限られた環境、人数、ルールの中で、いかに楽しめるか。それを探究するプロセスの中にこそ、クリエイティブであるためのタネが隠されているように思われました。

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もう1つは、ゴールを決めないこと。逆に決めておくことは、創作の出発点だけで良いということです。これも子どもたちから学びました。

職場の「ほっちのロッヂ」で放課後時間に実施しているアトリエ活動で、出会った当初3歳だった子どもたちは、まだ道具の使い方や作る楽しさを十分に知らない状態でした。
だから、一定期間のインプットが必要でした。そこには自然に「ゴール」があり、その日作るものの形があらかじめ決められ、まずは何かを完成させることの達成感、目的に応じた材料や道具の使い方をインプットしていく内容になっていました。

今や彼らは、小学2年生。いつしか「決まったものをつくる」ことに飽きてきました。必要なのは、十分な材料と、適切な道具と、少しの助言だけ。あとはおのおのがアイディアを持ち寄って、れっきとしたアトリエ活動が展開されています。

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経済的効率、生産性だけを重視すると、軽視されがちなあそびの価値。経営やイノベーション、教育など広い分野で議論されているプレイフル・シンキングの考え方には、あそびの中に生まれるアート活動の価値を論じる時にも使える語彙がありそうです。

アートに触れたことのない人に、その価値をどう伝えることができるか
それは、数値にならない「心地よさ」や「感情の揺れ」という状態や変化の内実を、どう言葉にして伝えるか
あるいはもう、アート活動そのものが言葉を超えて訴える力を、いかに密に、ダイレクトに、確実に届けられるのか

そこに、アーティストと裏方の仕事のコラボレーションの醍醐味があるように思います。

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