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奥能登国際芸術祭へ

奥能登国際芸術祭へ行ってきました。

UNMANNEDにもご参加いただいている
ひびのこづえさん、力五山さん、村上慧さん作品を見られてうれしかった。
村上さん、ひびのさんには現地でお会いできて束の間の再会を喜びあう。
こういうことは芸術祭を開催するということに踏み出さなければなかったこと。

珠洲市は本州での人口最少の市。
海岸線と海のそばに迫る山の間には、つやつやした瓦屋根(能登瓦)が美しい家々が広がります。
普段見慣れている太平洋とは全く違う表情の日本海に沿って走りながら、3日間で作品を鑑賞。

夜のアートツアーにも連れていっていただき、満天の星空の下で回った作品も素晴らしかった。珠洲の日常にさらに近く触れられたような気がした。

特に記憶に残った作品を我流の感想でシェア。


中島伽耶子/あかるい家
昼と夜と現代の欲望。シンプルだけど思いつかないこと

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空き家の壁や屋根にたくさんの穴が開いていて、昼間は太陽の光、夜は
内側の電灯により、内と外に光が穴からもれだす。
希望や豊かさの象徴とされる光やあかるい家は同時に現代の欲望も象徴するのではないか、と作家は考える。

人のいなくなった空き家に、残像のように残るかつての欲望の可視化のような、かつてにぎわいのあったころの家の明るさの残像のような、シンプルな表現方法だからこそ胸に迫る作品。
個人的には、家という枠からはみ出す試みをする村上さんの表現と呼応するような形で心に残った。

カルロス・アモラレス/黒い雲の家
地に根ざしている人の存在で作品の価値や見え方は何倍にも増す

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珠洲で唯一海から離れたエリアにある大きな大きな空き家。どっしりとした素晴らしいおうちに無数の紙の黒い蛾が止まっている。
埋め尽くされた蛾の大群は、作家が祖母を亡くしたことから表現をはじめたもの。
家のすばらしさを蛾の大群が伝えに来てくれたような不思議な感覚になる。異界に入り込んだような。
朽ちていこうとしている空き家を、蛾の大群がこの世に押しとどめているような、そんな風に見えた。

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ここでは、地域のおじいちゃん2人が受付をしていた。
人数を正の字でカウントするために玄関に座っている。
丁寧な声掛けもなく説明もない。話しかけてくるでもない。

こちらから話しかけたら、「どこから来た?」と。
「静岡です」と言ったら、「全国からたくさん(人が)きている」とはじめて少しうれしそうなお顔に。方言がきつくてあとはあまり聞き取れなかった。

帰ろうとしたら「柿持っていけ」と。
見ると玄関に「ご自由に」と枝付きのつやつやの柿の実が。

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会場の立派なおうち。玄関奥に見えるのが受付してくれた2人のおじいちゃん。

受付のおじいちゃん2人は、作品やアーティストをすごく理解しているわけではない、たぶん。
でも、地域と、大きな空き家と、作品と、我々来場者を、彼らの中にある「箱」のようなものに一緒に入れてくれていることが静かに伝わってきた。

説明なんかなくっても、丁寧な言葉なんかなくっても、こんなに饒舌な芸術祭の協力者はいないと感じた。
いるだけで、アーティストとその表現と、地域と空き家をつなぎとめ、作品の見え方が変化する存在。
ずっとずっとお元気で。と祈りながら会場を後にした。次も必ず会いましょうねと。

山本基/記憶の回廊
保育所の記憶と個人の記憶が重なると未来への道ができる

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行く前にガイドブックで一番気になっていた作品。
亡くなった奥さんとの思い出を忘れないよう忘却という自己防衛本能に抗うための制作。
記憶や過去へコネクトするための回廊が、子どもという未来そのものの存在が育っていく場所に描かれていることで、実は未来にもコネクトしていくという希望ある作品に感じられた。
積もり積もった悲しみが、少しずつ未来に向けて浄化されていくその途中のような、新しい何かが芽生えた瞬間に立ち会ったような気持ちになった。
活気と静謐、動と静のコントラストが美しかった。

おでこ(2さいの娘)がものすごく気に入って、いったん会場を出たあとにせがまれてもう一度入った。
保育園だった場所の持つ記憶と、現在リアルな保育園児は何かがシンクロするのだろうか。うれしそうに走り回っていたけれど、奥の「塩の塔」の場所では厳粛にしていた。

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村上慧/移住生活の交易所

生活の枠外に飛び出す。発展とは、お金とは。

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「生活をしているのではなく、生活をさせられてるのかもしれない」
と村上さんは言う。「新しい住み方を制作」しなければならないと。
発砲スチロールの「家」を背負い、各所を泊まり歩き、会期中はのと鉄道
旧珠洲駅のプラットフォームで生活しながら、「交易所」で移住生活の中で手に入れたものや作ったものを販売。

鑑賞者が次から次へとやってきて村上さんの1畳分の「家」を覗いていく。
「プライベート」というものは、家という空間をお金で買うことで得られるものだったのだ、と気づかされた。
ひょうひょうとしていて、でも誠実でうそのない村上さんという人は、名物の塩アイスをさしいれてもらっていたり、話しかけられて丁寧に応じていたりして、大変に忙しそうだった。私たちがひょっこり行ったら、
あの、感情が表には浮かんでこない感じで、でもなんだかものすごくうれしそうにしてくれて、うれしかった。

発展とは
お金とは

ということに、村上さんは生きるという行為丸ごとで表現にして疑問を投げかけている。

昔の世界は、その日のパンを買うために働き、得たお金でパンを買っていたが今はお金を稼ぐために働き、稼いだお金を何を買うか。
目的がパンではなくお金になっている現代で、既存の価値観にあらがい、変換されていく瞬間に立ち会えた。

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交易所で私が購入した村上さんの行為
2020年11月23日の村上さんの生活とその日の棒きれ。


スズ・シアター・ミュージアム「光の方舟」
民具が主役に。全く新しいシアターミュージアム

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大蔵ざらえの様子はSNSで見ていた。
珠洲の約70軒の家々から運び出された民具や日常生活の品々が集結。
お膳、脱穀機、古いテレビ、俵を編む道具などなど様々なもの。
それらがまさに「語りだす」劇場型民族博物館。

博物館などでその地で使われていた古い道具などが展示されているのはよくあるけれど道具を席から鑑賞するという体験は生まれてはじめて。
私には、いったん元々の役目を終えた道具たちが、新たな役割と自由を与えられ喜んでいる歓喜の歌を歌っているように聞こえた。

誰もいなくなったら、ここの道具たちはもといた家や使っていた人の話をうれしそうにするんじゃないかと容易に想像できる空間だった。

人が減り、空き家が増え、ものは行き場をなくしている中、アートというものがこのような形で地域によりそう試みをこれまでに見たことがない。


力五山/漂流記
場所を捉えなおすと新しい地図と新しい価値が生まれるということ

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珠洲を支点にした巨大な本州の「やじろべえ」を表現。周りには日本の425の有人島がつるされている。
視点を変えると、最涯が中心になる。珠洲を中心に日本全体を見渡してみると、当たり前のことが当たり前でなかったり、
様々な価値や課題をもが浮かびあがってくる。

視点を変える。新しい価値が生まれる。地図を書き換える。これらはアートの持つ力そのものだと感じた。

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他にもたくさん素晴らしい作品が。

最涯と最先端に出会う芸術祭。

作品の先で土地に出会い、あるいは土地の先で作品に出会う。芸術祭が地域を置いてけぼりにしていないから、食べたものも、話した人も、見た景色も全てひっくるめて芸術祭になる。作品だけを見る旅でなくなる。

アートバスも良かった。聞けば、我々のバスのガイドさんをしてくれた方は珠洲市役所の課長さんだった!作品や芸術祭の成り立ちだけでなく、地域や風習の説明も的確で、なんと素晴らしいと惚れ惚れした。いやー、すごい。こんなに率先して現場に出てきてくれる公務員さん、いるだろうか。

心地よい刺激がいっぱいの3日間でした。やっぱりすごい。

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