【新しい資本主義に向けて】法人の株式保有

新しい資本主義が言われているが、それは非常に抽象的な言葉で、どんな行動でも包括しうるものとなる。言葉だけを先走らせるのではなく、具体的に、現在の資本主義の何が古いと考え、それをいかにして新しくするのか、ということを議論する必要があるのだろう。

かつて、「世界一企業が活動しやすい国にする」、と言ったようなことが政策スローガンに挙げられたが、それは、企業が活動しにくいことを古い資本主義だと考え、それを活動しやすくすることによって新しくする、という考えなのだろうが、それを引き継ぐのか否か、ということは明らかにされるべきなのだろう。

仮にそれを引き継ぐと考えた時に、この、企業の活動をしやすくする、とは一体何を意味するのか。そして、それは本当に望ましい方向での新しい資本主義なのだろうか。

それを考えるには、なんのために資本主義という手法を用いる必要があるのか、ということを考える必要がある。資本主義は、富を効率的に生み出すために有効であると考えられ、つまり、人々が経済的に豊かになるための最善の方法として選択されていると考えるべきなのだろう。その時に、企業の活動をしやすくする、というのは資本主義を新しくする最善の方法なのだろうか。

ここで、人々が経済的に豊かになることと、企業の活動をしやすくすることの相関性がどの程度あるのか、ということを考える必要が出てくる。企業の活動をしやすくして人々が豊かになるためには、まず多くの人が企業に雇用され、失業率がほぼゼロに近づく必要がある。その上で労働分配率を上げて労働者への富の配分を高める必要が出てくる。あるいは、企業の株式を全国民になるべく平等に分配し、資本分配率を上げる、というやり方でも良いのだろう。それは、いずれにしても、現行の資本主義に比べれば、ずいぶん共産主義に近いようなイメージとなるが、それでも企業の活動をしやすくして国民を経済的に豊かにするのだ、という覚悟を持っているのか、ということが、まず問われるのだろう。

その上で、企業の活動をしやすくすることが利益に結びつく必要も出てくる。果たして、すべての企業が利益を上げられるようにできる、企業の活動をしやすくする方策はあるのだろうか。

そこで、まず何が企業活動を大きく妨げているか、ということを考えれば、皮肉なことに、財政規模が拡大するに従って、政治家による予算ぶんどり合戦の行方というのが企業活動に大きく影響せざるを得ないことになっている。これによって、予算配分のあり方というのが企業の意思決定に大きく影響し、そしてそこにいかにして噛んでゆくか、ということが重要になることで、消費者の声を直接聞いて、稼いだ富の分配以外のやり方で、商品を通じて国民を豊かにする、というチャンネルもどんどん細くなるという、資本主義の機能の限定化の作用も誘発する。本来的には、市場の声を聞いての意思決定というのが、企業活動の重要な部分を占めているのにも関わらず、財政の拡大はその力を押さえつけることになるのだ。そうなると、企業を(市場の方を向いて)活動しやすくするには、まず財政規模を縮小し、政治の経済への介入を小さくすることである、ということになってしまいそうだ。

その上で、財政はなんにしても、元請け、下請け、孫請けというように階層的に仕事が広がる。そして、サプライチェーンの発達がその傾向を強める。それは、経済全体を構造化させ、硬直的にし、それによって企業活動は大きく圧迫される。大企業中心の経済の割合が高まれば、そこから外されないように、新しい仕事を作って営業を広げる、というやり方を控えるようになるかもしれない。そのような経済の構造化を防ぐ、ということが、企業の活動をしやすくする、ということにつながるのではないか。

そんな構造化に大きな役割を果たしているのが、企業の株式持ち合い、そして子会社化による完全支配、ということがある。通常の営業でも大口顧客の意向は無視し難いのに、それがさらに所有者となったら、もはや自由な活動などというのは考えられようもない。それは明らかに企業の活動のしやすさを大きく損ねている。別法人は独立して自由に活動するから経済が活性化するわけで、それが片方の会社の所有物となったら、別法人となっている分、社会的な管理費用も含め無駄になる。例えば、新規の取引が、本体と直接行えれば活動しやすくなるのにも関わらず、間に子会社が挟まることで明らかに1段階の無駄が発生する。

そして、そもそも株式というのは、投資の配当を人々に分配して、資本主義によって達成された富の効率的生産を人々に還元する機能を持つわけで、その配当を人ではなく法人に向ける、ということ自体、人々を経済的に豊かにするという資本主義の存在意義からすると、無駄なことをしていることになる。

そのような構造的な無駄を生じる法人の株式所有を、社会が制度として認めている、ということ自体が、企業に生産活動以外の無駄なことを考えさせる要素となり、企業活動を妨げているのだといえる。例えば、子会社を使った節税、などということに貴重な資源を費やす余地を与えていること自体が、企業の効率的生産活動を阻害しているといえるのだろう。政治の側で、その抜け穴のようなものをキチッと塞ぐことで、企業は生産活動に注力することができるようになり、活動がしやすくなるといえるのだ。

新しい資本主義への第一歩として、企業というものをどう考えるのか、という見解を明らかにする必要があるのだろう。

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