情報とデータ2

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情報をデータに変えるには、なんらかのフレームワーク、典型的にはデータベース、あるいはディレクトリ構造などに収める必要がある。そうすることで、情報はなんらかの秩序、オーダーの下に整理されることになる。そのフレームワークはなんらかの設計思想に基づいているはずであり、それがそのデータ処理者の考え方のベースであると言える。

個々人ならば、そのフレームワーク構造をある程度柔軟に変えてゆくことも可能だが、集団となると、データの同期を取るために、フレームワームの変更は大変な作業になる。それは大きな集団になればなるほど大変になる。フレームワーク上でデータを共有するというやり方は、フレームワークが固定的になるという点で、その中に格納されたデータも含めて陳腐化しやすいという特徴を持つことになる。

ディレクトリ構造は、構造変更が容易でもその履歴が残りにくく、また複数ディレクトリへの所属がしにくくなる。コンピューターにおいてはそれをパーマリンクで解決するということにしているが、それを具体的(?)データについて適用するのは難しい。データベースにおいてはクエリを走らせることでデータの変形を容易にしているが、それはキー構造を必要とし、データ構造が固定的な以上、その構造に準じたクエリ結果しか出てこない。つまり、構造の不備はデータレベルでは修正が効かないのだ。

ネットワーク上における情報共有の仕組みも、現状においてはフレームワーク(プラットフォームというべきか)ありきで、いわば前提に基づいて議論をする、という論理的思考で構成されていると言える。それは、そもそも前提に合わせる必要があるということで必ずしもフラットな仕組みではなく、つまりフレームワークの存在をアプリオリに認める、ということが議論に入る前提になっているという時点で、フレームワークを作った人、その所有者の立場が圧倒的に強くなるという不均衡な仕組みであると言える。

フラットな仕組みは、それぞれが自分のフレームワークを提示し、その中で相補的情報交換を通じてお互いのフレームワークの中身を充実させる、ということによって成り立つのではないか。現状のデジタルスキルは、既存のフレームワーク(プラットフォーム)の使い方がほとんどであり、自らのフレームワークを構成するというあり方は、かなりのハイレベルな層に限られ、さらにそれを構成したところで、他者に受け入れさせなければならない、という、いわば支配権の拡大競争のようなものが必須となる。そんなことではなく、それぞれが自らのフレームワームを、自分の使いやすいように設定し、それを相補的に充実させる、ということでないと、データの蓄積や処理自体がフレームワークの専有権を巡る争いとなり、非常に効率の悪いことになる。エッジコンピューティングの肝は、この非効率を避けることということにあるのだろう。

さて、情報が流れ、波であるとは前に書いたが、大規模フレームワーク(プラットフォーム)においては、その流れ方というのは、フレームワーク設計の段階でほぼ定まっており、あとはその流れの中に自分のデータをいかに入れ込み、情報の流れの中に組み込むのか、ということで、先ほど書いた通り、既存のデジタルスキルとは、ほぼこの部分に集中していると言って良いのだろう。そうなると、自らの解釈や整理がなんであれ、そこにアップロードされたデータはそのフレームワーク(プラットフォーム)の解釈によって上書きされ、それに従って流れることになる。それが、現在の、フレームワーク(プラットフォーム)を提供するテック大手(プラットフォーマー)の圧倒的な情報力拡大の背景であり、一旦そうなると強いプラットフォームにはさらにデータが集まり、情報の流れが強化されるというバンドワゴンの効果が加速する。そのプラットフォームは所有者、提供者の都合で容易に変更可能であり、利用者はアップロードされたデータ自体を自分のものとして再利用するのも難しくなる。それは、利用者間での相互作用によって生じた文脈をプラットフォームの保有者が搾取するということでもあり、そのために、利用者の方でも、その文脈をいかに自分のものとして利用するか、ということに、プラットフォームのメリットを見出すこととなり、プラットフォーム自体が文脈争奪戦の場となる。本来ならば相互作用を促進すべき場であるネットワークが、固定的フレームワークのために、文脈争奪戦の場となるのだ。それは、ネットワークを戦場に変えるという、非常に不毛なものであり、それ自体相手を間違った文脈に載せるようなフェイクニュースを産む根本原因の一つであるとも言える。

それは、プラットフォーム保有者にとっても同じで、いかにプラットフォームによって自らの文脈を強化する一方で、そのプラットフォームへの参加者を増やすか、ということのために、情報に誇張や隙を紛れ込ませて、そこに利益の源泉をちらつかせ、その功利主義的効果によって自らの情報の文脈力を強める、ということが行われる。デジタル化の急速な進展によりその罠に完全にはまり込んでしまっているのが、マスコミであると言えるのではないか。

フレームワークはその設計思想によって情報の流れが定まる。明治維新以後に成立した多くのマスコミは、その出自からして維新のどさくさに利益を見出したものが多く、例えばそれに対する評価はなんであれ、英国のThe Economist誌のように、穀物法反対という具体的立場から発したものではないので、その展開する議論に対する評価ということがしにくい、という特徴がある。つまり、どんな議論を展開しても、辿ってゆくと会社設立時のあり方に帰結せざるを得ない、ということになるのだ。それは、情報を深めようとすればするほど、幅を広げようとすればするほどそこに行き着くことになり、結局そのあり方がおかしければ、フレームワーク自体がそれに準じているので、そこから生じる情報の流れはどこまで行ってもその在り方に縛られるということになる。その立場が明確でないと、その明確でないところに触れるようなことは隠す、という方向に作用し、それがいずれかの段階での過去の歪曲というところに行き着くことになる。隠したことによる矛盾は、論理的にはどこかで清算しないと辻褄が合わなくなるからだ。

戦前の歴史に筋が通らないことが多くあるのは、戦後に新たにできた会社などの集団が、その始まりを正当化するために、過去を歪曲せざるを得なくなり、それが積み重なってよくわからない話になってゆくのだろう。だから、草創期の歴史にあからさまな嘘が含まれていれば、その会社は現在進行で無理を押し付けている可能性が非常に高いということになる。そういう会社が、従業員や取引先に対して、無言で自らのフレームワークの正当性を押し付けることで、その嘘を共有するよう強い、そして嘘が社会的に事実として受け入れられるようになる。

そして、情報プラットフォームであるマスコミなどが、明治維新、日露戦争、第二次世界大戦といったところに利益の源泉を埋め込み、それを嘘で塗り固めてゆくことで利益を実現してゆくということをおこなっているのだと言える。プラットフォーマーの提供するフレームワークベースでの現代化とは、ひたすら過去を食い潰し、嘘を受忍することで実現された、まさに砂上の楼閣であると言えるのだ。それが崩壊した時、残ったのは嘘にまみれた記憶のみ、ということになってしまうのだろう。

そのような愚かなバベルの塔を必死になって作ることよりも、個々人が自分の記憶を大事にし、それを豊かにしてゆくことの方がはるかに重要だし、意味のある人生だと言えるだろう。そのためにも、自ら作った個別のフレームワークに基き、相補的な情報交換、データ蓄積を行うようなエッジベースの仕組みが重要になってくるのだろう。

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