情報体化のあり方

現状、相互作用における情報の体化のあり方、つまりどのように情報を記憶するのか、というあり方について、もちろんさまざまな人がさまざまなやり方で行なっているのだろうから、一概に、そして一般的にどうだ、などと言えるような話ではないことは重々承知であるが、自分の在り方と、自分が観察した社会の一般的な在り方というものを提示してみることで、他の人との考え方の違いなどがわかってくれば、などと考えて、雑文を書いてみたい。

情報戦術

人から得た情報をどのように整理するのか、というのは、非常に難しい問題で、相互作用である以上、情報を得たら、それが明確な記憶として残っているか否かに関わらず、自分の行動になんらかの影響を与えることは避けられない。そこで、情報整理のあり方次第で、その伝達経路を自分に有利なように引き寄せ、それによって自分の行動利益を極大化しようとするのが、ミクロ的な情報戦術であると言えそう。

ミクロ的情報戦術の具体的様相

その情報戦術のあり方を、観察できる範囲で追ってみると、まず、社会の動きというのは、なんらかのカテゴリーに含まれる行動の集合体として、現象として具現化するのだと考えられる。だから、社会の動きに含まれるカテゴリーの内訳を把握し、そしてミクロ主体がどのカテゴリーでどういう意図を持って行動しているか、ということを、特にインフルエンサー的な影響力のおおきなミクロ主体について認識しておくことで、その動きに応じてその影響範囲にあるカテゴリーに属する集団が動き、それによって現象が発生するという流れを把握できることになる。このミクロからマクロへの動きで、ミクロ連動性を持っている所へのアクセスをハッキングすれば、自分の意図をミクロからマクロの流れの中に埋め込むことができ、それによって自らがインフルエンサーではなくとも、インフルエンサーの影響範囲に自分の意図を流し込むことができるようになる。インフルエンサー側であっても、自分で全ての情報を集め、それを思い通りに動かすというのは大変なことなので、自分の意図に近いものが影響範囲に流れ込むこと自体はあえて咎めない、という行動をとることもあるだろう。しかし、その意図の方向性が完全にずれた時、影響範囲の主導権をめぐる争奪戦が起こることになる。そしてそれは、インフルエンサーのボス猿争い的なことになり、発言力があるのならば具体的に論争をすれば良いのにも関わらず、現実は論争というのはすでに話ができた中でのプロレス的なものにしかならず、その前段階の影響力をいかに確保するのか、というテクニカルな部分で主導権争いの帰趨はすでに決まっていると言えるのだろう。

認識格闘技

主導権を確保する具体的テクニックについては、さまざまな人がそれぞれの秘技のようなものを持って主導権争いに臨んでいるのであって、その秘技を明らかにすることなどはまあないのであろう。しかしながら、それは認識格闘技とでも言えることであり、私に言わせれば非常に野蛮で暴力的な認識の争奪戦が行われており、それはもはや人間理性の限界を超えているのではないかと感じる。

認識専有権の問題

私個人とすれば、認識の専有権にそこまでこだわるということ自体が非常に愚かしく、それは、そこに含まれる微妙な違いによる多様性の可能性を押し潰してしまう、せっかく人類が言葉を得て切り開いてきた豊かな表現力の世界をわざわざ破壊し尽くしてゆく、あまりに反人間的な行動であるという感想を持つ。
しかし、現実的には皆生きるのに精一杯で、そして生きてゆくためにそのような認識専有権確保のための技術を必死に磨いてゆかなければならない、という、非常に悲しい、人類滅亡に向けての生存競争のようなことが行われているのでは、という観察解釈に至らざるを得なくなりつつある。

関係性記憶

それを少しでも和らげるために何ができるか、ということであるが、情報をいかに記憶するか、という部分で摩擦を低減するよう工夫する必要があるのではないだろうか。情報の記憶の仕方として、私は文字にすることを好むが、どうも自分の体を組織とし、相手をその組織の一部に組み込み、受信した情報をその組織に体化させることで記憶する、ということがなされているように感じる。つまり、人との関係性を体内の組織とみなし、その組織に記憶を保持させることで、組織連動の動きがあった時に肉体の当該部分が反応して記憶を励起する、ということがなされているように感じるのだ。これは、関係性による集団的な記憶の共有であるといえ、しかしそれはいちいち承認が取られるようなこともないだろうから、相手にその関係性記憶をなされた時点でその集団への帰属が定められ、それによって団体行動、連動性の枠組みの中に取り込まれてしまうということがある。

集団記憶と連動性によって形成される空気

それを積極的に利用して、集団記憶と連動性の流れの中で生きてゆく、という選択肢はあるのだろうが、そうなると独自記憶はほとんど失われ、連動性に取り込まれて無駄なことを日々行わないといけない、というようなことにもなりうる。体化された集団記憶は、神経細胞や脳細胞の連動という形で関係性の調整を自動で行うようになる。そうなると、多様性への自覚なく、単に集団の一員として行動するようになり、行動規範が所属する組織の基準に従うことになる。そうなると、集団の作り出す空気の中で反射的に行動するようになり、それによってカテゴリーに従った意志表示を伴う行動であるとみなされ、それが現象を作り出す元となる。それはもはや神経細胞や脳細胞が共有され、連動するような状態になっているので、嫌だと思っても抜けられず、日々摩擦に神経が直接晒され、そしてそれによって反射的に競争行動をとるよう煽られ、奴隷のように、あるいは機械のようにただただ空気に反応するだけで生きてゆくことになる。

自己目的行動、自己情報管理

そのような集団ありきの行動ではなく、前回見たような自己目的に基づいて合理的に行動する、ということにし、そして記憶のあり方もそのような集団の関係性に基づいたものではなく、誰とどういうことを、というのを記録したりして、神経の共有ではなく、自分の情報管理によって行なってゆくようにすることで、集団から自立した個人が確立し、排他的ではない自分の目的追求に集中して取り組めるようになるのではないだろうか。

望まれる多様な情報管理手法

情報の体化記憶から連動性で社会的な仕事をこなしてゆく、というような産業社会的な行動パターンはもはや限界に達しているのではないかと感じられる。機械的な情報管理を自分で行うようになれば、情報の整理の仕方についての知恵も、今のようなディレクトリ構造でファイルを管理するという方法が望ましいのか、というようなことを含め、それぞれに合った情報整理、管理の手法がさまざまなモジュールによって具現化され、多様な情報管理手法からより多様な考えかたや物の見方が生まれてくるようになるのではないだろうか。

画一的情報管理のリスク

現代は脳科学のように、脳の動きを一般化して解釈し、みんなが同じような脳の動きをするのだ、という考えに基づき、画一的な情報管理が行われ、それによって思考様式も世界中で皆似たようなものになっているのではないかと危惧される。考え方が画一化されるということほど集団絶滅に至るリスクを高めるものはないのであり、いかにしたら多様な考え方をサポートできるのか、ということを常に考えることで、人類の集団的暴走を少しでもやわらげ、典型的には地球への負荷というものを減らしてゆく必要があるのではないか。とりわけ、全員が貨幣獲得に向けて競争し続けるということほど地球や自然への負荷を高めるような行動パターンは他に思い浮かばないものであり、いったい何のためにそのような破滅的な行動を必死になってしないといけないのか、私には全く理解ができない。愚かしい競争心理をなるべく抑え、皆が自分のペース、自分の納得に従って行動できるような世界を実現してゆくことが必要なのではないか。そのために、指揮命令系統に基づいた競争社会ではなく、寛容と対話に基づいた協調的な社会を目指す必要があると私は考える。

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