功利主義の経済学的適用の限界
個人の自由を重視した現代社会における社会制度や政策を評価する重要な基準となっているものに、功利主義がある。
では、その幸福とはいかに測られるべきなのだろうか。その経済学的な解決法が、貨幣によって定量化し、その貨幣の動きを記録することで功利主義的な満足度合(効用)を測るというものだ。近代経済学は、その手法を採用することによって定量化された経済を政策評価に応用し、幸福を貨幣評価するという現代経済社会の基本的価値観を設定したのだと言える。
しかしながら、果たしてその手法は本当に人の幸福を適切に評価しているのだろうか。少し考えただけでもいくつかの問題が浮かび上がる。
貨幣で幸福を全て表現しうるのか。要するに全ての幸福は金で買えるのか。
幸福を金に変えた時の失望感というものを、功利主義の経済学的評価は適切に行うことができるのか。
貨幣以外の形で幸福を貯めておきたいという功利主義的欲求を、経済学的貨幣評価は掬い上げることができるのか。
貨幣価値の変動によって増減するものは、果たして功利主義の経済学的評価の結果だということができるのか。例えば、貨幣がなければ発生することのなかったインフレに対する不満は、功利主義的にどう評価されるのか。貨幣量の膨張が幸福の損失につながるという明らかに相反する貨幣的価値と功利主義的価値を一体どのように評価しうるのか。
これらのことを考えたときに、功利主義を経済学的に評価した貨幣価値と、貨幣で表現できない功利主義的価値とは果たしてどちらが大きいのだろうか。そしてその差分は一体どれくらいあるのだろうか。それを適切に評価できないまま、功利主義の経済学的解決を政策評価基準として採用することは果たしてふさわしいのだろうか。
この問題を解決するためには、問題を切り分ける必要がありそうだ。問題は功利主義にあるのか、幸福の貨幣による評価にあるのか、それともそれに基づいた経済学にあるのか。功利主義や経済学と言った理屈に問題があるのならば、それを修正すればなんとかうまく使いこなすことができるかもしれないが、幸福の貨幣による評価自体に問題があるとすれば、どう理屈を直しても、その二つの理屈を繋ぎ合わせるインターフェースに問題があることになるので、どうにも解決の見通しはつかなくなってしまう。全ての幸福を貨幣で評価できるわけではない、という厳然たる事実に直面したとき、一体経済は功利主義的になんの意味があると定義しうるのだろうか。
このなんとも陰鬱な状態を抜け出すためにはどうしたら良いのだろうか。最もふさわしいのは、功利主義+経済学という枠組を一旦取り外し、まずそもそも功利主義的な幸福を定量化すべきなのかどうか、すべきならばどのようにすべきなのかということを考える必要があるのだろう。短期的にそれが難しいのだとしたら、いかに功利主義を経済学的に評価した貨幣価値と、貨幣で表現できない功利主義的価値との差分を極小化できるのかを検討する必要がありそうだ。
そのためには、一つには貨幣の分配をできるだけ均等化する必要があるだろう。幸福の表現手段が不均等な状態で、それが幸福を定量化しているのだと言われても全く説得力に欠ける。むしろ、限界効用が逓減することを考えると、少額の貨幣の方がより多くの幸福を定量化しているという経済学的な結論となってしまい、貨幣経済の拡大自体が幸福を逓減させるのだ、とわりに感覚的に近いかもしれない合理的結論に達するのかもしれない。既得権益層ほどインフレに対して厳しい態度をとりがちなのも、この理屈から導き出されるのかもしれない。しかしながら、その原因はインフレというよりもむしろ、貨幣の不均等配分によって自分の持っている貨幣の限界効用が相対的に貨幣を少ししか持たない人のそれよりも低くなることに対する嫉妬であると言えるのかもしれない。これは、「ピグーの第2命題」としてすでに議論の対象となり、その後序数的効用という考え方に発展したが、それがあまりに理屈先行であるために感覚との齟齬が発生しているのかもしれない。
もう一つは、貨幣を貨幣で取引するような多くの金融市場的なものの存在だ。幸福を定量化したはずの貨幣価値同士を比較してその利鞘を稼ぐ、というのは、貨幣が幸福を客観的に定量化できていないという、功利主義の経済学的実現という理論的基盤を根底から突き崩す事実を取引の対象にしているということであり、その取引高が拡大するということ自体、いかに貨幣が幸福の定量化をできていないかが定量化されて表現されているということになる。そのような、理論の蛸足食を精緻に理論化、アルゴリズム化して、元となる理論をどんどん食い潰す取引は、一体誰のなんの幸福を増すというのだろうか。金融市場が功利主義的に正当化しうるのか否か、というのは、マクロ、ミクロの両面からより深く検討されるべきではないだろうか。さもないと、功利主義を定量化して突き詰めてきた近代経済学以降の客観指標に基づく政策運営の基盤がどんどん突き崩されてゆき、人の幸福にとってなんの意味もない数字の羅列が社会を一方的に規定してゆくという不毛極まりない世界が、論理的に、自動的に実現してゆき、人はその中の歯車になってゆくという「素晴らしき新世界」へと一直線に進んでゆくことになるのではないか。