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【Lonely Wikipedia】周恩来

では、今度は中国の方から眺めてみたい。

鍵となるのはやはり周恩来。でも、全体的にどうもすっきりしない。

1898年3月5日に江蘇省淮安府に誕生し、天津の南開中学校で学んだ。南開中学卒業後の1917年日本留学した。日本語の習得不足により第一高等学校東京高等師範学校の受験に失敗した。その後東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現在の政治経済学部)に通学した。
1918年に留学生の一斉帰国運動も起きるが、周恩来は冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再び来日した。帰国前の数ヶ月については記録も無く、よく分かっていない。苦渋の中で酒に溺れがちだったという説もある。やがて、母校の南開学校が大学部を創設するということを知って、帰国を決意した。
1919年4月に帰国し、南開大学文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる五・四運動が起きる。周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。

たぶん、これは廿一箇条の要求に対して、袁世凱が政府からの給付金を討ちきったのではないか。もっとも袁はもはや没していたので、張敬尭あたりが何かやったのではないか、と思うが、詳細はWikipediaではわからない。それで留学生は帰国せざるを得なくなったと言うことではないか。周は五・四運動には参加しただろうが、反日という立場で参加したとは思えない。これは、五・四運動自体の再検討が必要ではないかと思うが、たぶん反袁世凱の立場だったのではないか。

1920年フランスパリに留学する。労働党の研究のためにイギリスに渡ってエディンバラ大学に入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りずに断念してフランスに戻る。1924年に帰国し、共産主義者として活動した。

このあたりはかなり怪しいと思う。そもそも五・四運動自体が、反ヴェルサイユ条約の動きであり、その条約を主導した国の一つであるフランスに留学、というのはどうもすっきりしない。戦後すぐのフランスは政治的にも安定しておらず、それほどの魅力があったとも思えない。そしてその後に周が特に西ヨーロッパと強いつながりを持っていたような感じも受けない。直隷派が欧米からの支援を、そして安徽派が日本からの支援を得ており、日本からの西原借款段祺瑞政権に対して出ている中で、その使い方に関する何らかの政争があったのだと思われる。そんな状況でのヨーロッパ留学というのはどうも考えにくい。

ここでいう奨学金が下りず、というのが、先ほどの日本からの留学生の帰国であろうと考えられ、五・四運動の本質は、奨学金を打ち切られた学生の、直隷派政権に対する反発だったのではないか。そしてその後の時期は、周はおそらく日本に戻っていたのではないか。

なお、中国語版では、

中国語は読めないのでDeepL頼み

1921年3月、張申福と劉慶陽の紹介で共産党グループに参加。その後、張申福、劉慶陽、趙紫煙、陳公平(または呉明)とともに、中国共産党創立前のヨーロッパ初の共産党グループであるフランス共産党グループを設立。 パリ共産党グループは、同年7月の共産党大会議には参加していないが、中国共産党設立のきっかけとなった8つの共産党グループの1つとされている。1923年、孫文とソ連は「孫文越飛共同宣言」に調印し、共産主義者が「民主主義三原則」に従わなければならない個人として国民党に参加することを認めていた。 1923年6月、周恩来はパリで個人として中国国民党に入党し、11月には国民党欧州支部執行部総務課の課長に就任した(執行部課長・王靖基)。 [1924年1月、国民党の第1回全国大会が広州で開催され、孫文は「ロシアとの同盟、共産党への寛容」という方針を掲げ、共産党員の個人的な加入を受け入れた。 この考えは後に共産党によって「連合ロシア、共産党を容認し、農民と労働者を助ける」と宣伝され、国民党と共産党の協力を提唱した。

このあたり、

を見ても、実質的にフランス共産党が活動しだしたのは1930年代のようで、それ以前の話はむしろ周恩来がフランスにいた、という事のアリバイづくりのために作られた感じがする。中国共産党が1920年に出来たというのもかなり疑わしいので、全体的に周恩来がこの時期に中国共産党に関わっていたというのはかなり怪しい。このあたり、まさにベトナム戦争に直結するフランスインドシナ支配にも関わってきそう。

その後、日本語版では戦後に話が切り替わる。中国語版では日中戦争中の話がいろいろ書いてあるが、ほとんどが疑わしい。このあたり、なぜ戦後に周恩来があれほどまでに指導力を発揮し得たか、という事につながるように、しっかりとした検証が必要だろう。

総理就任と外交政策
1949年の中華人民共和国の建国後、周恩来は国務院総理首相に相当。建国当初は政務院総理と称していた)に就任し、1976年に死去するまで27年間この地位にあった。また、1958年まで外交部長外務大臣)を兼任し、外交政策を主管した。
周恩来は1950年に非共産圏ではビルマに次いで中華人民共和国を国家承認して最初に大使館を設置した国となっていたインドと関係を強化し、インドと対立していたパキスタンとも1951年に外交関係を結んで後にインドよりも中華人民共和国と親密になる契機を築いた。

まさに大黒柱にふさわしい。印パとの関係はもっと検証が必要になるが、そこまで手が回るか。

1955年インドネシアバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)直前には会議に招待されなかった中華民国(台湾)による周恩来暗殺作戦とされるカシミールプリンセス号爆破事件が起きている。

カシミールプリンセス号爆破事件についてはCIAの関与ともいわれるが、それもありながら、台湾というよりもむしろ中国共産党、人民解放軍系の関与の方が疑われるのではないか。中華人民共和国が共産党独裁で、周恩来が共産党であったという部分の正確な意味を吟味することによって見えてくるのではないかと思われる。

かつての向ソ一辺倒での蜜月も消えてソビエト連邦との中ソ対立が起きると、中華人民共和国は発展途上国だけでなく、米国や日本などの先進国との国交正常化を求めるようになった。周恩来は総理として両国との交渉を管掌した。日本とは高碕達之助との合意でLT貿易を行い、日本社会党自由民主党の元内閣総理大臣である片山哲石橋湛山と緊密な関係を築き、1959年には中国建国10周年慶祝訪中団団長の片山と会見して石橋と日中国交樹立を呼びかける共同声明を発表している。

ソ連との関係については、ソ連国内の派閥争いに絡んで、特にシベリア方面に勢力を持っていたグループとの関係が悪化したのだと考えるべき。それは、国単位ではなかなか見えてこないだろう。
日本との関係では、吉田茂が徹底して中国と距離を置いていたということであり、周はずっと国交回復を望んでいたと考えるべきだろう。

1971年には周恩来の外交手腕もあって中国共産党の一つの中国政策を支持しきたインドやエジプトなどアジア・アフリカの非同盟諸国、ソ連と東ヨーロッパなどの東側諸国、米ソと並ぶ国連安保理常任理事国でもあるイギリスフランスなどの一部の西側諸国や当時のウ・タント国連事務総長からの支持も得てアルバニア決議国連総会で可決され、中華人民共和国は国連に加盟して中華民国を国連と関連の国際機関から追放させることに成功し、アルバニア決議に反対していた日米も中華人民共和国との国交樹立に動くことになる。

周のずば抜けた外交能力がなければ、サンフランシスコ講和条約から省かれた中国が今のように国際社会で力を得るという事はなかっただろう。台湾の国連追放というのは、ニクソンの姿勢から中台の分断工作を見て取り、それに対する対策だったのではないだろうか。

1972年2月、パキスタンやルーマニアの仲介でアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソン訪中を実現させ、アメリカとの国交正常化交渉を前進させた(アメリカ合衆国と中華人民共和国との米中国交正常化が実現したのはニクソンの共和党政権と交代した民主党ジミー・カーター大統領と鄧小平の間の1979年のことである)。

米中交渉はキッシンジャーが主導したようにも見られるが、実際のところ、主導権を持っていたのは周の方ではないか。わざわざ大統領に出向いてこさせるというのは、周の外交力のなせるワザではないかと思われる。キッシンジャーの方が長生きした、という事で、後付けの解釈が広まったのであり、その証拠としてのアメリカの中国に対する腰の引け具合だと言えるのではないか。アメリカとしては、今はなされている話と、実際の話のギャップがある間はおそらく中国には頭が上がらない。そしてそうしている間に、中国サイドで、周の実績が共産党の力によるものだ、という風に書き換えられてゆくのが、世界にとって一番危険なシナリオだろう。周の再評価を通じて、歴史の流れがまともに戻ることを期待したいし、そうするよう努力しないとならないだろう。

なお、この辺りの資料は、もしかしたら


で失われた藤山愛一郎による中国近現代史料コレクション「藤山現代中國文庫」の中に多く含まれていたのではないか、と考えると、非常に惜しいものが失われてしまい、取り返しがつかないという、とても残念なことになったことになる。

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