見出し画像

【Lonely Wikipedia】横浜正金銀行

長信銀からの特殊銀行つながりで、横浜正金銀行についても調べてみた。

株式会社横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう、英称:Yokohama Specie Bank, Ltd.)は、かつて存在した日本の特殊銀行。通称・正金、YSB。1880年(明治13年)に開設された国立銀行条例準拠の銀行で、外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利益を軽減するよう現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としていた。その名の通り神奈川県横浜市中区に本店を置いた。東京銀行(現在の三菱UFJ銀行)の前身とされる。

特殊銀行とは言っても、最初は国立銀行条例に基づいて作られたという。

1876年(明治9年)の国立銀行条例の改正で、不換紙幣の発行や、金禄公債を原資とする事も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された(これ以降は設立許可は下りなかった)。

このあたりはよくわからないが、「ナンバー銀行」と呼ばれる銀行が153あり、国立銀行で他に番号のついていないものはないのではないかと考えられる。しかも79年以降は設立許可が下りなかったとされるが、横浜正金銀行の免許が下りたのは80年2月だという。本当に免許が下りての開業だったのだろうか。

実はこの時期、政治的にも非常に不安定な時期であった。

明治13年(1880年)2月28日、参議の各省卿兼任が解かれ、大隈も会計担当参議となった。大隈は佐賀の後輩である佐野常民を大蔵卿とし、財政に対する影響力を保とうとしたが、大隈が提案した外債募集案に佐野も反対したことで、大隈による財政掌握は終焉を迎えた。

つまり、横浜正金銀行の免許が下りた5日後、そしてその営業開始の当日に大蔵卿の大隈重信が辞任している。かなりの駆け込み免許、認可だったことがわかる。

その横浜正金銀行の設立に深く関わったのが早矢仕有的であった。

(丸屋商社を)輸入書籍や文具を取り扱う大型書店として発展させる一方、明治12年(1879年)、丸家銀行を創設し金融にも進出する。同年の横浜正金銀行の創立願書には、総代中村道太と共に発起人の一人として名を連ねた。丸家銀行は書店業から顧客の信頼を得、産業振興をめざす山形県の有力者などから資本や預金を獲得したが、明治17年(1884年)に松方デフレの影響と近藤孝行頭取の乱脈経営によって経営が破綻し、早矢仕は再建を目指して丸善社長を辞して銀行頭取に就任するが、結局、再建できず責任を取り退陣した。その後、丸善は文房具、書籍販売の本業に経営の力点を焦点化することで経営を再建した。

丸家銀行と横浜正金銀行の関係も良くわからない。普通に考えて、二つの銀行を同時並行的に、一方は国立で、もう一方は民間で作るということが考えられるのか。しかも、三井銀行という大きな例外はあるが、国立銀行以外で民間が免許もなく勝手に銀行ができたのかもよくわからない。明治12年以降新規に国立銀行が認められなくなったのには、この丸家銀行が関わっているのではないか。そんな怪しげな早矢仕有的という人物が、丸家銀行の設立と同年に関わった銀行は本当にまともに運営されていたのか。

そもそも、横浜正金銀行が基づいているというこの国立銀行条例というもの自体が非常に怪しい。

明治5年11月15日(ユリウス歴1872年12月3日)に明治5年太政官布告第349号として制定され、明治9年8月1日(ユリウス歴1876年7月20日)に全部改正された。

となっているが、当時は岩倉使節団が訪欧中で、大蔵卿の大久保利通も大蔵省に影響力を持っていたとされる木戸孝允も日本にはいなかった。そして、岩倉使節団自体、元は大蔵大輔の大隈重信が発案したものともされ、銀行の視察というのがその大きな目的であった可能性もある。その留守中に何の権限に基づいたか、太政官布告によって出されたのが国立銀行条例なのだ。そして、太政官とは役職名ではなく、組織の名称(と言ってよいのだろうか?)という非常に不安定、というか曖昧なものだった。この話をしてゆくだけで1本どころか、明治という時代の闇が大きく明らかになってゆくのだが、それを今やっているといつまで経っても進まないし、世界史からどんどん離れてローカルな話になってゆくので、ここではあえて触れない。

とにかく、明治6年以降大蔵卿となっていた大隈重信がかなりの部分絡んで主導したと考えられる国立銀行で、その大隈重信の最後の落とし物のように生まれたのが横浜正金銀行で、しかもそれに関わっているのが福沢諭吉の慶応閥と言うことで、大隈にかぶせる形で、免許の有無にかかわらず勝手に動き出していたのがいわゆる横浜正金銀行だったのではないかと疑われる。横浜正金銀行の名前自体、明治16年に為替取引が定められた時か、明治20年に横浜正金銀行条例が公布された時に始めて定まったものであろう。

国内の様子は情報が錯綜しており、ちょっとすぐには整理が付かないので、やはり海外情勢から流れを大づかみにしてゆきたい。まず、銀行設立というのは、法制度の確立と切っても切れず、それは帝国憲法を大陸法系にするのか、英国法系にするのか、という国内の憲法論議が、そのまま当時の海外情勢の反映となっていることに留意すべきなのだろう。

そんな中で、大陸法の中心であるフランスは、大陸全体での通貨体系を統合するラテン通貨同盟を1865年に結成した。

1865年12月23日、フランス、ベルギー、イタリア、スイスの4カ国は条約を締結し、ラテン通貨同盟を結成した。4カ国は金銀複本位制で、金と銀のレートをフランスで認められている、15.5:1とすることで合意した。1LMUフランは、4.5 gの純良な銀貨、または0.290322 gの純良な金貨と等価とした。
この条約により、4カ国は共通の基準に基づいて、自由に両替可能な金貨や銀貨を鋳造できるようになった。条約が結ばれる前は、例えば、4カ国それぞれの国において、銀貨の純度は80%から90%と様々であった。しかし、この条約によって、最も純度の高い5フラン銀貨の純度は90%、2フラン銀貨、1フラン銀貨、50サンチーム銀貨、20サンチーム銀貨の純度はすべて83.5%にしなければならなくなった。この条約は1866年8月1日に発効した。
ラテン通貨同盟は、どの参加国でも鋳造し、交換できる金貨や銀貨の基準を定めることで、異なる国どうしの貿易を促進する役割を果たした。こうして、フランスの商人は、イタリアのリラをそれと同じだけの価値を持つフランに両替できるため、イタリアの商人との取引にも応じることができた。

ラテン通貨同盟は、法的に金銀交換比率、そして硬貨の質を一定に定めることで、貨幣を交換手段として確立させることで、取引を円滑化しようとした取り組みであると言える。しかしながら、時はほぼ明治維新と同じ頃で、既に日本との金銀交換比率の違いは明らかになっていたはずだった。これは、おそらくではあるが、イギリスの金本位制に対抗するための試みであったと考えられる。

イギリスでは、1717年にアイザック・ニュートンが定めた1:15.21というニュートン比価によって、その高い金の交換率のために金がイギリスに集まり、その後ナポレオン戦争での兌換停止を経て、 1816年、イギリス貨幣法(55 GeorgeIII.c.68)でソブリン金貨(発行は1817年)と呼ばれる金貨に自由鋳造、自由融解を認め、唯一の無制限法貨としてこれを1ポンドとして流通させ、 1821年5月イングランド銀行がニュートン兌換率により兌換を再開した事で金本位制が法的に確立していた。

アメリカ合衆国が建国されると国内の貨幣不足によって、1792年の貨幣法によって実質上の金銀複本位制が採用され、フランスでは1803年の鋳造法によって正式に金銀複本位制が導入され、同時に法定の金銀比価を1:15.5と定めた。当時、フランスはイギリスと並ぶ経済の最先進国であり、大量の金銀が同国に流れ込んだために、金銀比価と金銀相場の乖離が小さくフランスからは法定の金銀比価に合わせた金貨・銀貨の発行が行われたために、同国の金銀比価から逸脱する比価を採用する国はほとんど無かった。

イギリスがニュートン比価からの離脱を強いられたのは、ナポレオンがそれよりも更に有利な金価格を設定したためだと考えられ、逆にナポレオンの覇権の経済的理由はそこにあったのだと言える。ナポレオンの没落後にイギリスがニュートン比価に戻り、さらに金貨の自由鋳造を認めたことによって、貿易によって稼いだ銀をフラン金貨と交換し、それによってソブリン金貨を自由鋳造することで、国内のマネーサプライを確保し、フランスとは独立した経済圏を確保できるようになった。これが貿易立国イギリスの基盤をなしていたと言える。

その後のアメリカなどでのゴールドラッシュ、一方でアジア貿易による銀流入といったことによる金銀相場の不安定化に対して、金銀の交換比率を再び安定させるためにナポレオン3世に主導されて設立されたのがラテン通貨同盟だったといえる。ナポレオン3世が普仏戦争に敗れて廃位されると、各国は競って金本位制を導入(しっかりとは調べ切れていないが、金兌換紙幣を導入したということだと考えられる。つまり、金貨鋳造と金銀比率の固定という意味での金本位制とは性格が変わったのだといえる。)し、それによって銀価格は暴落した。このあたり、深入りすると複雑になるのでかなりはしょってしまうが、明治初期の国際通貨情勢とはそんな具合であった。

ヨーロッパで金本位制が主流になると、銀価格は暴落するので、銀を基軸とした取引が行われていたアジア太平洋の経済が、取引費用が低下することによって活性化する、というのは当然の帰結であった。だから、横浜正金銀行、この名前自体誰が付けたのか、というのは興味深いが、おそらくフランスとつながりの深かった大蔵大臣松方正義が、フランスの金本位含みで正貨ではなく正”金”と名付けたのではないかと考えられ、それに対してイギリス系の香港上海銀行が支援することで洋銀券の発行銀行としての横浜正金銀行となったのだろう。つまり、金と銀のどちらが正貨なのかということの争いも含んでいたのだと言えそう。そしてそれは、日本銀行と中央銀行の座を争うような存在であったとも言え、設立時点から政争の中心にあった銀行だと言える。

成り立ちも、その後の展開も、まだまだ全然書ききれないが、それは1回で書ききれるような物では到底ないので、一旦ここまでで切りとする。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。