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グローバル暦としての干支の可能性

ちょっと息切れしてしまったので、一休み。

西暦の宗教性

歴史を見ていると、やはり暦というのが大きな意味を持っていると感じる。典型的には、結局何事もなく済んだとはいえ、世紀末というのは、やはり何かしらの終末感が感じられるもので、そういうことで世界的に共通のセンチメントが作られやすい。そして、いうまでもなく、現在広く使われているグレゴリオ暦は、キリスト教と深い繋がりがあり、否応なく宗教的にならざるを得ない。グローバルで使われる暦が、特定の宗教と繋がっているというのは決して望ましいことではないと感じる。とはいっても、正確な太陽暦が採用されたグレゴリオ暦は、数ある暦の中でも最も科学的である、という事実は認めざるを得ない。その科学性と、そこで採用されている紀元の非科学性、宗教性をどのように折り合いをつけるか、ということで、私は、年号については干支を採用することを主張したい。

干支の長所

干支(かんし、えと、中国語: 干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。古代中国にはじまる暦法上の用語。

60周期でもとに戻るので、いつが始まり、ということがない。キリストの生誕と常に結びつく、非常に宗教的な西暦に比べれば、はるかに中立的で、文脈支配の度合いも薄まる。そして、干支と、たとえば各国の支配者の名前でも冠した元号のようなものを併用すれば、暦の個別性が生まれ、無機的な西暦による強制的世界連動性のような力も多少弱まりそう。つまり、グローバルでは干支で共通の時間が流れ、それぞれの国は元号的なもので個別の時間が流れる、という2階層の時間の流れとなり、グローバルスタンダード的な圧力を弱めることができると考えられる。それは各国の個別性を強め、世界の多様性を増し、どこへ行っても無個性的な場所となりつつある現代の退屈な均一性を弱めることができると期待される。

60進法の意義

起源は商(殷)代の中国にさかのぼる。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。干は幹・肝と、支は枝・肢と同源であるという。日本、朝鮮半島、ベトナム、西はロシア、東欧などに伝わった。日本に暦が伝わったのは古墳時代から飛鳥時代にかけてで、朝廷は百済より暦法や天文地理を学ぶために学問僧を招き、604年(推古12年)、日本最初の暦が作成されたと伝えられる。

起源は中国とされるが、60進法自体は

紀元前3000年から紀元前2000年の頃から、シュメールおよびその後を継いだバビロニアでは、六十進法が用いられた。

とされ、西洋的とまでは言わないにしろ、少なくともオリエント的な要素は十分にある。

12という数字は1年における月の数で、太陰暦的には1年を数えるのに欠かせない数字だ。そしてものを数えるのに、人の指の数は基本的には10本であり、その意味で、数を数えるのに10進法は必然であると言える。その最小公倍数である60というのは、1年という単位が重視される農耕社会成立に伴い、採用されやすい数字であったことだろう。

そんなことも影響してか、時間にも60進法が用いられているわけで、暦的要素で考えれば、太陽を計算に入れる必要がある1日から1年の間だけが特殊で、しかもその間の月は12進法が使われているという、合理と不合理が混在している状態であり、もう少し合理化できる要素はあるのだろうと感じる。時間に関しては、なぜ60進法を用いる必要があるのか、ちょっと理解に苦しむ点もあるが。

陰陽五行説のもたらす薄い宗教性

十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ。十干十二支は戦国時代に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであって学問的な意味はない。また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物への連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈である。鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。

陰陽五行説というのは確かに多少宗教的なのかもしれないが、少なくとも直接的にローマの神の名が月に使われているグレゴリオ暦よりははるかに抽象化されており、宗教性は薄い。そして陰陽五行説の意味付けは後からつけられたもので、その意味で、宗教性をもたらす本来の意味はすでに誰にもわからない。そしていつ始まったかすらも明らかではない。だから、単にその記号を年号として採用し、読み方すら各国、地域で独自に付ければ良い、という、漢字文化ならではの自由な暦にすれば、神の始めた暦ではなく、いつの間にかそこにあった暦として、拘束性の弱い暦となるのではないか。

宗教色の薄い暦のもたらす平和の可能性

陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)は、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。 陰陽道などにおいては、占術などに用いられる事もあった。

宗教自体暦と結びつきやすく、それはユリウス歴が長く使われることでローマの神話性が増していることが良い例なのだと思うが、陰陽五行思想は、古代の英雄と結びつくことがないということで相対的にいえば科学的な宗教のベースとなる可能性がある。それが、長く続いた戦乱の時代である春秋戦国時代に作られ始めた、というのは、決して偶然ではないのだと思う。もちろん、それに囚われれば、結局占い頼りの閉塞した停滞社会となるのだろうが、それはいずれにしても宗教に頼れば同じことであり、神を巡って殺し合いに至るよりははるかにマシなのでは、と考えられる。そして、干支がグローバル連動性を持てば、他の社会とのつながりも多少なりとも残るわけで、その意味で完全に停滞社会とはならない経路が残されている。つまり、よそから来た人とも、その年には何があったね、といって、共通の話題は、薄いにしても提供される、ということだ。それは占い師の無謬性を脅かすもので、その意味で絶対宗教化に歯止めをかける重要な要素となる。

辛酉革命、甲子革令
中国漢代緯書にみえる予言説(讖緯)である。中国よりもむしろ日本で信じられた。
辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。日本では、平安時代に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱によって、辛酉年の昌泰4年(901年)が「延喜」と改元された。それ以来、日本では慶応に至るまで、辛酉年と前年の庚申年の2年続きで改元が実施されたが、中国ではこのような例はない。
また、『日本書紀』では、神武天皇が即位したとする年を西暦紀元前660年の辛酉の年に充てている。これについて、明治時代の歴史学者那珂通世は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があり、推古天皇9年(601年)がその年に充たることから、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年に充てたとの説を立てた。また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後に充たる甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年の甲子年(西暦664年)が基点とされる。
甲子革命については、中国でも、後漢末に太平道の教祖張角は光和3年(180年)に「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 皇甫嵩伝)」、蒼天(漢朝)已に死す 黄天(黄巾党)當に立つべし 歳は「甲子」に在り 天下大吉)とのスローガンを発しており、干支に基づく易姓革命を意識して光和7年(184年)という甲子の年に黄巾の乱を起こした史実がある。

とはいっても、このような乱世運命論を作り出す人はいつの時代、どこにでもいるわけで、それを防ぐための知恵は必要となるのだろう。それでもやはり、グローバルで使われれば、そういう運命がいかに作られたものかはすぐにわかるわけで、そういうのは誰が言い出すのかのトレースのしやすさを含め、広めるのは昔に比べればはるかに難しくなっていると言える。

グローバルの暦としての干支導入、悪い話ではないのではないか。

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