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主観と客観、そしてEBPM

ユークリッド空間が一般化された無限次元での数学的応用を可能にするヒルベルト空間において、空間のある座標にあるものが自己から放出されるベクトルの距離を測定できるのか、という問題があり、それは別の座標から観察しないと測定できないだろうし、しかもそれは座標の位置によって距離が違って見える可能性もある。その時に、果たして客観というものに意味はあるのだろうか?それは、常にある主観に対する第三者の主観的計測に過ぎないのであるといえる。

ヒルベルト空間の社会科学応用のもたらす問題本質

量子力学においては、それを部分空間として切り出すことによって計測可能にしているが、それが社会関係となると、個々人の距離定義が同じかどうか、違っているのならばその換算率はどのように決まるのか、ということが定まらないまま、部分空間同士を同一のものとして取り扱うことによって、誤差の検出すらも不可能になるということになる。つまり、ヒルベルト空間は、無限次元を取り扱う以上、その外からその観察を行うということが原理的に難しいことを意味する。一体、どの人間が、具体的定義もされ得ない無限次元の外側からある空間を観察できるのか、ということだ。つまり、現実的にはどの人間もシュレジンジャーの猫の問題に直面しているのにも関わらず、その猫の状態を常に把握できるのだ、という想定で行われるのがヒルベルト空間における数学的分析だといえる。その意味で、ヒルベルト空間の社会的応用は、まさに誰もが同じものを見ているという幻想の元に成立する宗教的計量分析になるのだろう。そこから生み出される問題は、なかなかに奥が深い。

EBPMの問題点

さて、そうした時に、最近よく言われるEBPM、証拠に基づいた政策決定というのをどう考えるのか、という問題がある。確かになんの根拠もなしにこういう政策が決まりました、と言われることに比べれば、なんらかの証拠があった方が良いことは間違いない。とは言っても、それはどれほど信じうるものなのか、という問題は常に付き纏うことになる。それは、データの信頼性、データの前提の信頼性、データ利用の信頼性、そして政策対応への影響力といったさまざまな面で問題を含んでいる。

データの信頼性

データの信頼性という意味では、基本的に現代社会においてデータ自体をいじってその信頼性を損なう、ということはなかなか考えにくい。しかしながら、データ作成の際の基準というのは、いかに統一基準があったとしても、担当者によってその解釈は異なる。一番わかりやすいのは、企業が何を経費として認めるか、ということは、ある程度企業の政策と結びついていることであり、それは企業ごとに解釈が異なる、ということになる。もちろん、税理士や公認会計士の関与のもとで一般的基準には揃えられるだろうし、その基準の微妙な変更自体が政策効果であると言えないこともないが、その政策との直接的関与は証明できない。そしてそれに限らず、担当者ごとの基準に基づいて収集されるデータでは、大袈裟なものでは、中国の大躍進政策の時の過大計上データのようなことは常に起こりうることであり、それはデータが政策と密着すればするほど影響が大きくなる可能性がある。つまり、自分の担当分野の成果が上がったことになれば、予算が増える、ということになれば、EBPMというよりも、政策主導のデータ作成、ということになりかねない、ということだ。

データの前提の信頼性

データの前提の信頼性という点では、データは常に現実に合わせてその範囲などが修正される。それはもちろん注記はされるのだろうが、しかしながら現実に合わせて微調整され続けるデータは、公式情報としては一連の時系列として見做されるだろうし、そして微調整しなかった結果のデータはほとんどの場合公表されることもないだろう。つまり、政策立案者にとって望ましい形でデータ修正がされることが常態化、とは言わないまでも、ありうる中で、そもそもそのデータは信頼に値するのか、という問題がある。意図的に歪曲しようとしないでも、立案者が考えている世界とは違うと考えるからデータ範囲の修正などを行うというのは、ある程度までは否定し得ない事実であり、そういうことが可能な中で、EBPMと言われても、どうなのか、ということがある。客観性基準を変えうるデータに基づいて、その基準を変えうる人が関与する形で出されるデータが信用に値するといえるのか、という問題であり、データ自体の作成担当者レベルでの恣意性に加えて、データ解釈者の恣意性というものも加わってくる、ということだ。

データ利用の信頼性

データ利用の信頼性、という点では、データのどの部分を用いて政策決定がなされたのか、というのはもちろん明記はされるのだろうが、これもまた基本的には解釈者の主観による部分が大きくなる。同じデータでもさまざまな解釈ができる中、政策立案者がデータの選定から関与するというのは、結局のところ、政策立案者が自分の政策にとって都合の良いデータを集める、ということに他ならない、ということだ。繰り返すように、確かになんの根拠もないよりも、データの根拠があった方がマシなのは間違いない。だからと言って、そのデータに対する反証的データの検証が行われる機会もなく、ただデータに基づいているから、ということでその意思決定が正当化される度合いが高まるのだったら、それはおそらく弊害の方が大きい。

データ対応の現実

というのも、政策とそれについての利用データが明らかになれば、その政策の対応者というのは、いかにすればデータを改善できるか、ということに知恵を絞ることになり、必然的に受験勉強的な、データの構成要素を解析して、それに対して最も効果的な成果が出るように行動を対応させる、ということが当然のごとく起きるからだ。それが先ほどの担当者レベルでの解釈にも影響することになる。それは、データに反応するように解釈が変わっただけの話であり、実際に政策の意図した効果が出たのかはわからない、ということを意味する。つまり、問題の本質がどんどんデータに表れない方向に追いやられ、政策担当者の自己満足は増すかもしれないが、実際の状況は何も変わらず、却って本質が覆い隠される方向に動きかねない、ということがあるということだ。

データ絶対宗教 社会科学教

このように、社会科学をデータのヴェールで覆うことは、データ絶対主義の社会科学宗教を作り出す可能性が非常に高くなる。データはマクロ的傾向は掴めるかもしれないが、個別の事情をどんどん捨象するように作用し、それを突き詰めてゆくと、結局マクロ的傾向自体も現実から乖離するようになって、ミクロとマクロの間の合成の誤謬が、今度はデータと現実との間の誤謬に変わってゆく可能性が高まるのだと考えられる。
結局のところ、データは、現実に対しての先入観・偏見を強化する作用を大きく持つということであり、データに基づいての意思決定が常態化すれば、人の心はどんどんわからなくなる、ということなのではないだろうか。

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