外交と世論 危うい関係

8月3日付「百年 未来への歴史」の3回目。

今回もまた、あたかも国民感情の高まりが戦争を引き起こしてきたかの様な誤解を導く様な始まり方となっている。日本において、戦争の直接の始まりが国民感情に煽られて、ということはなかった。日中戦争中においてメディアが主導し、或いは太平洋戦争後期の大本営発表によって、国民感情が昂るということはあったかもしれないが、それにしても国民感情が主導した動きではなかった。それは日本においては、歴史的な事実ではなく、現代的な現象、とりわけメディアがその様に仕向けている、すなわち世論を使って外交政策に圧力をかけようとしていることに他ならない。

対中感情の悪化について書かれている。中国側の指導者も随分と世代が変わり、歴史の見方も随分と漢民族中心主義に染まりつつある様に感じる。そんな中で、台湾にしろ、先に書いた満州にしろ、中国の名の下で漢民族支配の歴史的正当性を既成事実化しようとしているのではないか、という危惧があり、台湾周辺での軍事演習というのは、その点から注視する必要がある。そして、その行動への対応として、外交チャネルを閉じて、いわば無視するということにどれだけの外交的効果があるのか、ということを考える必要があるのだろう。それは黙認だともとられかねないリスクを孕むことになる。保守派の反応が気になるのならば、堂々と台湾を含んだ三者外相会談を提案して、中国側の選択肢を絞ってゆく様な対応もあるのではないか。中国側の歴史観の変化に対して、なるべく日中国交正常化の時の田中角栄周恩来の認識からかけ離れることのないよう、ベンチマークをきちんと定めて長期的認識を安定させてゆくことが必要になるだろう。一つの中国とは、決して漢民族絶対主義ではなかったはずだ。

幣原の講演内容については、いっていることはもっともらしいが、南京事件への対応の後では説得力に欠ける。そして、当時田中外交を批難して政争の道具にしていたのは、他ならぬ幣原ではなかったか。歴史はやはり背景まできちんと見ないと軽々しく評価を下すことは出来ないのだろう。

2面に移って、日比谷焼打事件が二十年も後の普通選挙の成立に繋がったというのはあまりに誇張がすぎるだろう。そして、あたかも世論が一枚岩であったかの様な書き振りは明らかなミスリードだろう。日比谷焼き討ち騒動が世論の全てを代表していたわけでもないだろうし、そして軍の排斥傾向というのが何を根拠に言っているのかわからないが、それはむしろ共産主義運動の高まりに対応するものではないかと考えられ、そしてそれゆえに特高制度の様なものを整備せざるを得なくなっていったのではないだろうか。そして、軍部への支持というのも、その様な背景の下に起きたのではないだろうか。世論を十把一絡げにして、好戦的な大衆像として描くのは、メディアによる責任転嫁ではないだろうか。

外交と民主主義について。世論民主主義を外交と関わらせるのはほとんどメリットを見出せそうもない。その時に、いったいメディアの外交報道とは何の意味があるのだろうか?とりわけ、客観性もなく、解釈が避けられないと高らかに宣言してしまった朝日新聞の外交報道とはいったいなんなのだろうか?最初に解釈基準を明らかにし、立場を打ち立てた上で論説を述べるのならばともかく、今回もそうだが、冒頭にテクニカルフィクションを入れて、世論をミスリードする気満々の外交報道とはいったい何なのだろうか?

いわゆる世論は、メディアの外交報道は信用ならないということを大前提にして、いかにして自分独自のリテラシーを高め、その精度を上げるのか、ということに注力すべきだろう。そのためには、一方で情報源を広げる、ということはもちろんそうなのだろうが、それよりも自らの軸を定めるということの方がより重要なのだろう。それぞれにとっての戦争原点は、決して広島や東京での話ではなく、ましてや中国や欧州の話であるはずがない。それぞれの地域で自分の祖父母や先祖がいかにして戦争に対応し、そしてそれがいまのじぶんたちにつながっているのか、という、直接的な関わりが重要なわけで、その様な自分に直接つながる文脈を辿ることによって、初めてそれらしさとか嘘っぽさの感覚が磨かれてくるのだろう。それが、リテラシーのベースとなり、そしてそれぞれの人がそれぞれの立場から認識を交換することで、多様な外交空間が浮かび上がり、それによってとりうる選択肢もまた広がるのだろう。

最後に、「世論は熱しやすく冷めやすいと知り、より長期的な視点を示してほしい。」とあるが、世論が熱し易く冷め易いのではなく、報道がそうなのだ、ということを銘記すべきだろう。世論は報道の鏡であり、報道に対する反応が世論となって帰ってくるのだと考えるべきだろう。そして、世論とは別に、それぞれの人がそれぞれの文脈で社会も、そして国際情勢も解釈し、それに従って行動している。それは本来的にはより長期的というか、持続的な感覚であり、その意味で庶民感覚というのは、不自然に煽られたりすることがなければ、自然に過激化したりするものではない。世論というのは、その健全な感覚を、妙な集中的情報で煽り立て、政治化しようとするものであり、その不自然で不合理なメカニズムをできる限り希薄化してゆくことが重要なのだろう。

その点において、SNSは、技術的には情報の流れをトレースすることが可能で、正体不明な世論よりもその意図は掴みやすいのではないかと感じる。解釈の流れがどう移り変わってゆくのかも含めて、今後さらに活用頻度は上がるだろう。その意味においても、情報解釈がますます重要になるこれからの時代、メディアに依存しない、自立した寛容なリテラシーがますます求められる様になるだろう。

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