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【Lonely Wikipedia】南北戦争3

いつまでも経過にこだわっているわけにも行かないので、南北戦争の本題へ。とは言っても、戦いの様子はそのままWikipediaを見ればだいたいわかるわけだし、それを写しても意味が無いので、南北戦争の国際的位置づけとその影響ということを考えてみたい。

1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選した。この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった。
同年12月にはサウスカロライナ州が早くも合衆国からの脱退を宣言。翌1861年2月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も合衆国からの脱退を宣言した。2月4日にはこの7州が参加したアメリカ連合国を結成、首都をアラバマ州モンゴメリーにおき、ジェファーソン・デイヴィスが暫定大統領に指名された(同年11月に行われた選挙で正式に当選している)。

このように、直接的なきっかけが、奴隷制が争点となった大統領選で、奴隷制度反対の共和党リンカーンが大統領になったことに対して、サウスカロライナをはじめとした南部諸州がアメリカ合衆国から脱退し、アメリカ連合国を作った事であるのは明白な事実であろう。
ただ、リンカーンが勝つことは、奴隷州からの候補が乱立していたことからも、やる前からわかっていたはずで、それを理由として用いただけだといえそう。この選挙では、現職大統領の所属する既成政党で南部で強かった民主党が二つに割れ、南部民主党の候補は前副大統領のブレッキンリッジであり、合衆国大統領を目指しているのだから、当然南部の合衆国からの脱退などと言うことは考えていなかっただろう。更に保守系も南部の合衆国からの脱退を避けることを主張する立憲連合党ができていた。奴隷制度反対を主張して結党された共和党ではあるが、リンカーンはその中でも穏健派の部類に入り、誰が勝っても急速な奴隷廃止に結びつくという流れではなかった。にもかかわらず、選挙結果を受けて、翌月にはサウスカロライナが合衆国からの脱退を宣言し、続いて年が明けると南部の6州が次々と脱退し、そして2月8日にアメリカ連合国が7州によって結成された。そして、サウスカロライナに合衆国の砦があったということで、そこに先制攻撃を加えたことで戦争に突入することになった。つまり、特に起こる必要もなかった戦争が、サウスカロライナが突出する形で起こってしまったと言うことになるのだ。ただ、形式的には連合国大統領の命令により攻撃が始まっているので、責任は、暫定ではあったが、連合国の大統領であったジェファーソン・デイヴィスにあった。

では、その時の国際情勢を見てみたい。まず一つには、メキシコで反サンタ・アナ元大統領の立場で暫定大統領であったフアレスが1861年3月の選挙で正式な大統領に選ばれている。自由主義者であったとされるフアレスは、債務の利払いを停止したことで、フランス、イギリス、スペインの介入を招き、最終的にはフランスがハプスブルグ家からマクシミリアンを皇帝として迎えて帝政を敷くことになる。そしてそのマクシミリアンは結局南北戦争後にフランスから切り捨てられ、捕らえられて銃殺され、再び共和制に戻る。スペインの元の王朝がハプスブルグ家であったことを考えると、これは新大陸で根強かったであろう反スペインボルボン王朝の古い王党派を整理するために、その前の王朝であるハプスブルク家から皇帝を一旦連れてきて南北戦争と一緒に切り捨てることで、ナポレオン1世時代からの悲願とも言えるアンシャンレジームの残り香のようなものを最終的に解体する、という文脈で考えることができるのではないだろうか。フアレスは原住民出身の初の大統領ということで、現地では評判が高いようだが、私は個人的にはその評価には懐疑的だ。

一方で、そのフランスが絡んだ動きとしてもう一つ、フランス人のレセップスが1858年の末からスエズ運河の開削に取りかかっていた。ナポレオン3世の義理の母のいとこに当たるレセップスは、ナポレオン3世からの支持を受けてこの事業に取り組んでいたが、それはイギリスをはじめとした諸国からは懐疑の目で見られており、資金調達もフランス以外ではままならず、結局フランス・ロスチャイルド家から資金を受けて、この計画を10年かけて成し遂げることになる。
実際に開削が終わると、そこを通る船の75%はイギリスのものだったと言われるほど、イギリスにとっては重要な航路となるのだが、開削時には徹底して反対したようだ。それはなぜかと考えてみると、それが通ることによって、これまで主流だった西インド貿易が明らかにインド貿易に切り替わってしまう、ということがあったのだろう。つまり、フランスは、新大陸でどんどん高まるイギリスのプレゼンスに対して、それをインドにそらしてしまおうという意図を持ってスエズ運河を開削する、ということを考えたのではないか。

そして、そのインドではその前年1857年にシパーヒーの反乱が起きていた。これは、イギリス東インド会社の支配に対する反乱だという解釈が広がっているが、中身を見てみると驚くほどにイギリスの存在感は薄い。そして反乱後58年8月にイギリス東インド会社は解散となっている。本来的にはもっときちんと調べてから書くべきなのだろうが、それをするにはあまりに問題が大きすぎるので、言いっぱなしの推論になってしまうが、この反乱とイギリスというのは実際にはほとんど関わりがなかったのではないかと考えられる。実は、インドとイギリスの関係性というのは、かなり作られた面があるように感じており、そのちょうど100年前にあったとされるプラッシーの戦いというのも、これも感覚に過ぎないが、のちの帰国後に議員となりながらも弾劾を受けたロバート・クライヴという人物の、ほぼ作り話なのではないかと考えられる。そして、それに基づいて虚像が膨れ上がった東インド会社という存在ができ、それによって綿織物がインド産のキャラコとしてイギリスに流入する、といったこともあったのではないか。

少し余談となるが、キャラコに類するものとして日本では更紗というものが知られている。これは、インド産の染織なのか、それとも織った後に彩色したのか、Wikipediaからではよくわからなかったが、とにかく木綿地に採色した織物のようで、室町時代に明から伝わり始め、戦国時代には南蛮渡来として知られるようになったという。しかしながら、その文献初出は江戸時代になってからのイギリス東インド会社のジョン・セーリスという人物の自筆の日記に出てくるのだという。それは、東洋文庫に納められているというが、日本に一度来たきりであとはずっとイギリスで過ごしたとされるセーリスの自筆の日記が、いかに中華民国に関係する文庫とはいえ、東洋文庫にあるということ自体が信じ難い。そして、もっと実際的な面からは、布への彩色ならば絹本、染織ならば西陣織のようなものが、どちらも木綿ではなく絹とはいえ、日本にはすでに存在していたわけで、舶来だからといって木綿地のサラサを取り立ててありがたがる必要はなさそうに感じる。木綿は、衣類としての実用性はともかくとして、彩色を施した芸術的用途としては絹にははるかに劣る。そして、現状残っている染色技術として、日本というのはかなり高いものがあるように感じる。その状態で、いったい更紗の何が良いと感じたのだろうか?更紗の語源には諸説あるようだが、それとは別に自分なりに考えてみると、一つにはその根拠となっているセーリスの名前を使ったものだとも考えられるが、私はそれよりも晒しが語源だったのではないかと考える。つまり、木綿の魅力はその彩色よりもむしろ白さではなかったか、ということだ。庶民の衣類であっただろう麻に比べて、木綿の白さというのは際立っていたのではないか。その白い木綿への名前として晒しという言葉が当てられ、それが木綿伝来の話を上書きするために、染色布の更紗、というふうに変わっていったのではないか。
ちょっと話が飛びすぎたが、とにかくそんな木綿の伝来に関わる話が、なぜ自筆日記の偽造(?)らしきことまでされて日本に残っているのか、ということも、西洋における木綿にまつわる話とつなげてみれば見えてきそう。17世紀以前に日本にインドから木綿製品が入っているとしたら、それはインドに古くから木綿があったという強い証拠となる。それを作るために、そこまで大掛かりな工作を、もし本当にしたのだったら、やはり余程のことを隠そうとしていると考えるべきなのだろう。

元に戻って、そんなプラッシーの戦いがあって、それからちょうど100年が経った年に、ムガール帝国自体を終わらせてしまうようなシパーヒーの大反乱が起き、それも作り話を交えながらイギリスがやったことにしてしまえ、という動きが出ており、そのような動きに対する直感的な反発がスエズ運河への反対へつながったのではないかと考えられる。それは、同時期の東インド会社の解散ということからも見て取れると言えるのではないか。奴隷制度も含め、東インド会社というのが、様々な陰謀の隠れ蓑になっていたといえそうだ。なお、インドは結局1877年にヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国となっている。

とにかくそんなことで、フランスがイギリスを東の方に目を向けさせるようにしながら、かつ南北戦争では南軍方に付くよう誘導していたようにみえる。奴隷制度に賛成している南軍方でイギリスを参戦させ、奴隷制度とともにイギリス自体も葬り去る、という計画だったのではないかと考えられる。その南軍がイギリスを引き込めるとかなり強く確信していただろう根拠に、やはり綿花の存在があるのだと考えられる。新大陸における綿花の歴史は、まず西インド諸島において南米原産の長い繊維の海島綿という綿花が生産され、それがイギリスの綿産業の勃興を支えた。それは、直接アメリカ大陸の気候に合わせることはできず、品種改良の結果その生産が軌道に乗り出したのが1830年ごろで、そこから次第にアメリカへの綿花生産の切り替えが始まった。それに従って西インド諸島ではサトウキビへと生産が切り替わり、南北戦争開戦当時には綿花供給はほぼアメリカからに切り替わっていた。その過程でイギリスはアメリカに対して奴隷取引の禁止を強く働きかけており、そのトレードオフの緊張がほぼピークに達して南北戦争へと至ったのだと言えそう。綿花供給の確保という現実的テーマに従えば、イギリスは南軍支持の一択だったのだろうが、国際政治的文脈では、選挙後に勝手に合衆国を離脱して連合国を結成した上に、先制攻撃まで仕掛けた南軍を支持する要素は何もなかった。南軍は綿花で釣れるだろうとたかを括っていたのだろうが、時の首相パーマストン卿はそんな話には乗らず、結局内戦として自分たちだけで踊ることになったのだと言えそう。イギリスに奴隷綿製品の汚名を着せて、アメリカ製綿製品をロンダリングの上で売り出そうという戦略は見事に失敗に終わったのだ。この繊維に対するルサンチマン的な心情が、のちの日本の絹の市場席巻に対して、化学繊維を必死になって開発する、という行動につながっていくのではないか。

南北戦争は、結局外国の介入もなく、内戦で終わったということで、戦後の国際社会に対する影響は限定的であったと言える。もっとも、それはフランスが大きな不安定要因であったメキシコをがっちりとおさえており、そしてイギリスが挑発に乗らなかったからだったと言える。その意味で、最大の戦争責任者のアメリカ連合国大統領が投獄に終わったというのは、それまでの原住民との戦いとの違い、そしてその後のアメリカの国際社会における戦争責任の問い方、さらにいえば、第二次世界大戦後に顕著になった他国の内戦に介入する形でのアメリカの戦争のやり方といったことに広く影響していることであり、それは回り回ってテロリズムの跋扈ということに繋がっているように感じる。その歴史的解釈をどうするのか、というのは、アメリカという国が国際社会に関与するために、自分たち自身で深く考察すべきことなのだろう。


令和3年10月8日 スエズ運河のところの人名、なぜかレキップと書いていたのをレセップスに修正しました。思い込みで書いて間違いもたくさんあると思うので、是非ご指摘いただければ幸いです。

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