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【ニクソン・ショックを探る】第二次国共内戦への道

国民党と共産党の立場の違い

日中戦争末期の1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示し、それが国民党主導の国民大会によって実施されるという構想を明らかにした。一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。これは、中国革命が、従来の民主主義革命ではなく中国に特徴的な新しい型の民主主義革命である「新民主主義革命」による「ブルジョア民主主義革命」の第一段階、そしてそれが資本主義社会を経ずに社会主義革命に移行する(新民主主義革命論)「プロレタリア社会主義革命」の第二段階という、二段階革命論によって進む、とした考えだ。そして、この第一段階の「新民主主義革命」が成功して迎える社会は、「社会主義社会」ではなく旧中国社会と社会主義社会の間の中間の社会である「新民主主義社会」とする新民主主義社会論を打ち上げたのだ。あちこち「新」がついて何か凄そうではあるが、その具体的姿は全く明らかではなく、字面だけを追えば国民党の方が国民に広く開かれた国民大会を主張し、共産党の方が政党による間接民主制を主張しているようにも見える。つまり、中国共産党よりも、国民党の方がはるかに国民の直接の考えを聞こうという姿勢が強かったことを示していそう。中華人民共和国というのは、その議論をベースにして作られた国なのだ、ということは考えておいた方が良いのだろう。なお、この具体的姿の曖昧さがそのまま毛の「プロレタリアート独裁」に向けた政策につながってゆく。また、毛は満州を拠点にして国民党と対決する、という事を明言しており、毛は、日本との戦争は国民党に責任を振った上で、自らは日本軍が残した満州の富を源泉にして国民党による中華民国の乗っ取りを図ったのだといえる。結局毛のやりたかったのは、「革命」そのものであったのであろう。

双十協定

終戦後45年8月30日、蔣介石と毛沢東は重慶で会談し、国共和平・統一について議論を重ね、10月10日に「双十協定」としてまとめられた。1月以上も時間がかかったのは、満州からの日本軍の撤退と合わせて、そこにどさくさに紛れて共産党が入り込む、ということがあったためでもあろう。そんなところで暗躍していた人物として高碕達之助がおり、のちの日中交渉にも顔を出すことになる。その「双十協定」では、国民党が「政治の民主化」「各党派間の平等性や合法性」などを約し、共産党も「蔣介石の指導」「国民党の指導下での統一国家の建設」を承認するなど、内戦回避と統一政権樹立について両党が努力することが確認された。構図としては、旧満州に共産党系が少しずつ浸透し、それ以外は国民党が優勢だった、ということで、毛沢東はなんとかして旧満州に拠点を築いて国民党政権から主導権を少しでも奪い取ることを考えていたのだろう。そうして「双十協定」が締結されたが、それが調印されたその日、山西省南部で上党戦役が勃発し、共産党トロツキスト過激派と国民党軍が交戦、共産党軍が国民党軍に大きな打撃を加えた。また、この年末には、降伏した日本軍の接収・管理のために国民党軍が東北地方に派遣されると、共産党も林彪率いる東北民主連合軍を派遣し、緊張関係が生じた。

マーシャルの登場

そこに、20日にアメリカから特使としてジョージ・マーシャル将軍がやってきて、明けて1月に国民党の張群、共産党の周恩来、アメリカのマーシャルは三者会談を行い、停戦協定を発表して軍事調処執行部、いわゆる3人委員会を設立した。この中で、周恩来は共産党代表とされるが、共産党というよりも、非国民党勢力の代表という感じだったのではないか。さらには、東北を除いた形での議論だったのではないかと考えられる。と言うのは、国民党は、旧満州の内内蒙古に当たる部分への国民党進出を求めたが、これが却下されたのだ。内蒙古を国民党が押さえなければ、ソ連側から東北に入り放題になるということで、満州を中国側に残しておくためにはこれは非常に重要な部分であったが、それが却下されたということは、東北部が議論の対象とはなっていないと示したものであり、そしてそれは共産党過激派の代表が出ていない以上、おそらくマーシャルが押し切ったのではないかと考えられる。その背景には、東北部に漢人は入れないという清時代以来の伝統はあっただろうが、その盲点を共産党、或いはマーシャルがうまくついたということになりそう。そしてそこには、満州国を支配していた日本人が関わっている可能性があり、その中で、のちに国民政府の支持を受けて賠償問題の話をするために帰国した、という高碕達之助の存在が大きくクローズアップされそうだ。マーシャルには仲介ができるほどの中国語を含めた中国に対する理解があったとは思えず、その橋渡しとして旧満州国に関わる人脈が介在していたと考えられ、その代表格としてアメリカとの関わりも深い高碕達之助がいた可能性がありそう。高碕が帰国した47年は、すでに国民党はアメリカから見捨てられて国共内戦に突入しており、高碕の言うところの国民政府が一体何を指すのか、と言うのは決して明らかではない。つまり、日本における中国国民政府の定義を握る、と言うのが高碕の持って帰った武器であり、それが戦後の日本の中国認識を大きく規定した可能性があるのだ。

政治協商会議

1946年1月、「双十協定」に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は、国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。

国民党第6期中央委員会第2回全体会議

しかし、1946年3月1日から17日まで重慶で開催された国民党第6期中央委員会第2回全体会議において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議したとされる。この部分は、非常に議論が分かれるところで、さまざまな資料を見ないと実際のところはわからないと思うが、とりあえず今見つけた中で一番妥当だと考えられるのは、国民党六届二中全会研究(之二)だと考えたので、それを見てみたい。
それによると、まず、2月1日に撤退期限が切れた後もずっと満州にとどまっていたソ連軍が3月12日に突然瀋陽から撤退を始め、これに対して国民党軍は13日には瀋陽を占領するために急遽進出した。これによって国民党軍と共産党軍が直接対峙するようになり、東北の情勢は一気に緊迫化し始めた。そんな状況下で3月14、15日に総合委員会と憲法草案検討委員会の合同会議が開かれ、中国共産党からは周恩来と董必武、国民党からは孫科と邵力子、民主連盟からは張君勱と羅隆基が参加した。そこで、周恩来は、国民党が妥協しやすい案として、

3月15日, 联席会议通过了对政协宪草原则的三点修改:第一,“国大应为有形之国大”;第二,“立法院对行政院之不信任权,及行政院解散立法院之权取消”;第三,“省得制定省宪,改为省得制定省自治法规或单行法规”(注:《新华日报》1946年3月16日。)。

DeepL翻訳で(一部手修正)

3月15日の合同会議では、政協憲法の3つの修正案が採択された。第1に、"国民議会は有形の国民議会とする"、第2に、"立法院が行政院を不信任する権限と行政院が立法院を解散する権限を廃止する"、第3に、"各省は省の憲法を制定することができるというのを、各省は省の自治法令または単項の法令を制定することができる、に変える"。(注:新華日報1946年3月16日付)。 .

という提案をした。これは「国民党の中で民主、平和、党内統一を主張する人たちが遭遇する困難を軽減するため」だと周は述べている。しかし、これが毛沢東と劉少奇から猛反対を受けた。

一方で国民党側だが、ここで非常に重要ながら、どうも内容が納得のいかないものがある。《周恩来一九四六年谈判文选》という1996年に出版されたものがあるのだが、その内容を引用して、

3月16日,周、张初步达成六点协议, 当晚周致电延安:“今晚以中央元午电示与张治中作长谈……张治中谅解情况,承认我军地位”。六点协议关键为两条:丁、政府接收东北主权,有权派兵进驻苏军现时撤退之地区;戊、凡现时中共部队驻在地区,政府军队如须进驻,应经过商定行之。上述条款关键在于“现时”二字,周恩来向中央解释道:“根据丁项,政府只能进驻现时苏军撤退地区,即沈阳、长春以及抚顺地区。但我军驻在抚顺、铁岭,故我仍可根据戊项不让”,“非苏军现时撤退地区,完全不受丁项约束。”张治中要求取消“现时”二字,周恩来反对,周对张说:“如无此二字,即无时限,不可能有妥协。”周恩来还判断:蒋介石“对于东北目前只想占多少算多少”(注:《周恩来一九四六年谈判文选》,137—138页。)。也就是说,蒋对于接收东北的期望并不高。

とある。
DeepLの訳を写すと、

3月16日、周と張は6項目の予備的な合意に達し、その日の夜、周は延安に電話をかけた。"今夜、中央委員会の袁術電報によって、我々は張志忠と長い間話し合うことになる。...... 張志忠は状況を理解し、我が軍の地位を認める。" 6項目の合意のポイントは、d.政府は東北の主権を引き継ぎ、現在ソ連軍が退却している地域に軍隊を送る権利を持つ、e.政府軍が現在中国共産党軍が駐留している地域に移動しなければならない場合は、合意の上で行う、という2点であった。上記の条項のポイントは「現在」という言葉で、周恩来が中央委員会に説明したところによれば、「D項目によれば、政府が駐留できるのは、現在ソ連軍が退却している地域、すなわち瀋陽、長春、撫順に限られる。 しかし、我が軍は撫順と鉄嶺に駐留していたので、やはりE項目では認められなかった。"ソ連軍が現在退却していない地域は、D項目の対象には全くならない"。 張子中は「今」という言葉の削除を要求したが、周恩来は張子中に「そのような言葉がなければ、時間的な制限もなく、妥協もできない」と言って反対した。 また、周は蒋介石が「当面は東北部をできるだけ多く、あるいは少なく占領したいと考えているだけだ」と判断している(注:1946年の周恩来の交渉選集、137~138ページ)。 つまり、蒋の東北占領への期待は、それほど高いものではなかったのである。 つまり、蒋は東北部の買収にあまり期待していなかったのである。

これは、周恩来が共産党軍を退却させたくないとして読むと全く意味が通じなくなってしまう。「現在」の言葉に従えば、撫順については政府が駐留できることになる。それを削除すれば現在共産党軍が駐留していることから、国民党軍は入らないことになる。張治中が「現在」を削除するようにいったと言うのは、国民党軍がそこに入りたくないといったという意味で捉えられ、だから周は蒋介石が東北部にあまり興味がないのではないか、と考えた、と言うことになる。つまり、周はソ連軍の撤退に合わせて共産党軍も撤退させ、そこに国民党軍が入るよう合意しようとしたのだが、張治中がそれを嫌がり、その結果国民党内での蒋介石の立場が悪くなった、と言うことになりそう。(最终,周、张的这一初步协议未能签署。)これによって国民党側でも議論がまとまらなくなった。

こうしてどちらもまとまらないまま17日の会期末を迎え、結局周恩来は18日に“我觉得政协的一切决议不能动摇或修改,这是由五方面代表起立通・・・”という内容の記者会見を開かざるを得なくなり、交渉は決裂した。

決裂後の展開

之後美國特使馬歇爾於1946年初來華,並與張治中、周恩來組成三人小組,負責國共雙方軍事整編。
此間,張治中經常向馬歇爾抱怨國民政府,為中國共產黨宣傳。
3月27日,国民政府代表张治中、中国共产党代表周恩来和美国代表吉伦於重慶怡园正式签订关于派遣執行小組前往東北調處停止衝突協定。
3月28日,國民政府特派張治中為軍事委員會委員長西北行營主任。

張治中はマーシャルに国民政府の悪口を言い、共産党の宣伝ばかりしていたという。そんな張が東北部への部隊派遣の協定に調印し、そして事もあろうに国民政府が張を軍事委員会委員長に任命したのだ。そして4月から戦闘が激しくなる。

4月蒋中正就东北接收问题的讲话更引起中共报纸攻击。3月,随着苏联军队在东北撤退,国共重新开始在东北爆发军事冲突。1946年4月15日,中共在苏军撤走长春一个小时内突袭长春机场并占领长春,随后其紧随撤退的苏军占领哈尔滨,齐齐哈尔。随后,国共两军在四平街,长春等地激战,东北局势急剧恶化。 1945年下半年国共主要冲突列表  

3月、東北地方のソ連軍が撤退したことで、共産党は東北地方での軍事衝突を再開し、1946年4月15日、共産党は長春空港を急襲し、ソ連軍の撤退後1時間で長春を占領し、その後、撤退したソ連軍がハルビンとチチハルを占領したのである。 その後、両軍は四平街や長春で激しい戦いを繰り広げ、東北の情勢は一気に悪化した。
ソ連軍の撤退後に共産党軍が入り、そして撤退したはずのソ連軍が別のところを占領する、という騙し打ちとしか表現できないことが起こるのだ。おそらくこの辺りから、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していったのだと見られる。そして、6月5日に、今度は東北部での停戦が定められた。蔣介石がこれを受け入れたことで、形勢が一気に共産党有利に動き出した。

国共内戦の始まり

ここからはほぼWikipediaからの引き写しとなるが、15日の停戦期間が過ぎた22日に、自分たち共産党がソ連から支援を受けている中、毛沢東が「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求したのだ。それに対して国民党は当然反発し、6月26日、蔣介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令、国共内戦が始まった。

見捨てられる国民党

これに対してアメリカは、6月28日、ディーン・アチソン国務次官が記者招待会の席上、アメリカの対中政策について演説し、アメリカの対中援助に関するさまざな行為は「破壊的な長期間にわたる日本との戦争による影響を除去するため、一国家としての中国を援助するというこれまでに確認された計画」を完遂するためであって、これが目標とするところは中国の統ーでありアメリカ政府としては「中国共産党を含むすべての重要な政党の十分かつ公平な代表からなる政府によってこうしたアメリカの援助が実行に移されることを特に希望する」のであり、「中国の各政党聞において統一政府を成立させるという協定が実現されない限り、アメリカ政府は対中援助を行うことはできない」と強調した。そしてそれを受けて、国務長官のマーシャルは、トルーマン大統領に対して国共間の調停が絶望的であること、その多くの責任は蔣介石にあるとして、7月29日から中国への武器弾薬の輸出禁止措置を行うこととした。8月10日にはトルーマンが蔣介石に対してその行動を非難し、8月31日には再度、国共間の政治的解決こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならばアメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したがそれもなんら効力を発揮しなかった。同年12月18日にトルーマンは「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明したのだ。アチソンによれば「中国で内戦が再開されたならば国民政府とは関係を維持しつつ、合衆国兵力を中国から撤収し、物質的援助を停止することを考慮する」とし、「もしソ連が中国共産党を支持することになった場合には合衆国は政策を大幅に再検討することが必要になろう」というものであった。アメリカの後ろ盾を失った国民党は、それ以来敗北を重ねることになった。

理不尽なアメリカ

この流れから見て、マーシャルと中国共産党、そしてソ連軍が組んで国民党軍の殲滅を図ったことは明らかだろう。そして散々火をつけた挙句に蒋介石を非難して撤退という、モラルも何もないことをしたのだ。Wikipediaでは”つまり、マーシャル・プランのような中国の工業および農業改革の復興を援助する計画は、内戦を行ったことで破綻となったのである。またアメリカ軍を撤退させたことにより、後に共産化を招くこととなり、国民政府が台湾への遷都後に米華相互防衛条約の締結・在台米軍の駐留などアメリカの庇護を受けることになる。”としているが、アメリカサイドが、一方的に共産党の言い分を大きく取り上げることで、意図的に国民党軍を見捨てたことは隠しようがない。戦時中徹底的に蒋介石を支援していたアメリカが手のひら返しで国民党を切り捨てるこの理不尽なアジア政策を見れば、日本が悪役扱いされた日中戦争において、いかにアメリカのこの理不尽な対応から耐えていたか、というのがよくわかる。

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