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平等(equality)と公平(equity)

エピラボさんの「同化主義・文化相対主義・多文化主義:平等と公平」に拙いコメントをしたら、大変な宿題をいただいてしまいましたので、たいそうなことが書けるとは思いませんが、読ませていただいて感じたことを書こうと思います。

まず、同化主義・文化相対主義・多文化主義に関しては、大変シンプルに、わかりやすくまとめていただき、流れが整理できてとてもありがたかったです。
ただ、多文化主義の実現の手法としての平等から公平へ、という部分で、法というものをどう考えるのか、という非常に難しい論点が浮かび上がってくるな、と感じたのでコメントしました。

多文化主義の話からはずいぶんずれてしまって、これで本当に議論が成り立つものなのか不安ではありますが、私は法の観点から議論いたします。ただし、私は全く法律の専門家ではなく、法の専門教育も受けていないので、独断での解釈によるものだとご理解ください。

法の形式として、大きくコモン・ローと大陸法があると言えると思います。前者は判例の積み上げによる、それまでの社会で積み上げられてきた経験を重視した法体系であり、そこでは人が持つのは自然権で、人は生まれながらに様々な権利を有している、という考え方です。それに対して後者は、法の中に人の権利を全て書き込み、法に書き込まれることで権利が発生する、という実定法の考え方をとります。もっとも、実定法の中のに、基本的人権という言葉を書き込んでそこで事実上自然権を規定する、というのが現在の主流のようです。

平等(equality)の考え方は、後者の実定法に基づき、法に書き込んだものが、それに該当するすべての人に当てはまる、という意味で、平等(equality)というふうになっているのだと理解しています。
一方で、公平(equity)というのは、前者の自然権に基づき、法律には書き込まれていない、あるいは判例にも出てこないけれども、常識的な感覚としてそれは認められるね、という意味での公平(equity)なのだと考えています。

平等の考えは非常にデジタル的で、法の条文に該当すれば、法に守られた権利が発生するが、該当しなければ発生しない、ということになり、法の解釈者、そして法の知識を持つものが圧倒的に有利になるのではないかと感じます。そして、明文化されているが故にそこで書かれた権利は非常に強い力を持って保護の対象になりそうです。
一方で、公平の考え方に従えば、常識的な社会であれば、その社会の常識に従っていれば、大まかにその権利は守られる、というアナログ的な考えで、摩擦は起きにくい代わりに、個人の権利というものが定めにくく、常識の中に埋もれてしまいがちになる、ということになりそうです。ただし、コモン・ローにおいては、equityの考えは取引法の中で多く取り込まれているようなので、その意味ではequalityよりもシビアなデジタルなのだと言えるのかもしれません。そして、コモン・ローにおけるequityは「コモン・ローの硬直化に対応するため大法官 (Lord Chancellor) が与えた個別的な救済が、雑多な法準則の集合体として集積したもの」(Wikipediaエクイティより)だということで、これまでにequityとして採用された例は記録され、集積されていることになります。例外が起これば、その都度大法官 (Lord Chancellor)が判断する、ということなのでしょうか。

そこで、例えば障害者の権利をいかに守るべきか、ということを考えると、まず、誰にでも受け入れられるような一般的な障害を法に書き込んで保護する、というのはあって然るべきかと思います。一方で、障害というのは千差万別であり、それを厳密に文字で定義して個別に保護する、というのは明らかに不可能だし、私はすべきでもないと考えています。
だから、なるべく緩やかな一般的な障害を法で定義し、あとはなるべく個別に周囲の人ができる範囲で協力する、という、結局何も言っていないのと同じような、非常に保守的な結論しか出せないのですが、個人的には、障害者であれなんであれ、法によってギチギチに保護しないと生きていけない人がいる社会自体が非常に寂しいな、と感じています。
結局こういう制度哲学的な話になると、日常的に障害者の方に接しているわけでもない私に言えることなどほとんどないわけであり、それはやはり当事者や、それに関わる現場の人がうまくいくように制度設計がなされるのが一番良いのではないかな、と感じます。
とはいっても、それが法によって強制力を持つ、という状態は、私としてはあまり好まない、という、なんとも無責任極まりない立場になってしまい、お恥ずかしい限りです。

やっぱり大したことはかけなかったので、いくつか個人的に感じたネタを書いてお茶を濁します。

まず、equityというのは、会計用語で株主資本のこととされ、それがなぜなのか、というのがちょっと調べただけではよくわからなかったので、想像で勝手なことを書いてしまいます。全くの個人的な思いつきで、なんの裏取りもありませんので悪しからず。

ちなみに英語版Wikipediaでは

The term "equity" describes this type of ownership in English because it was regulated through the system of equity law that developed in England during the Late Middle Ages to meet the growing demands of commercial activity.

ということで、equity lawに書かれているから、と書いてありますが、それはequity lawで株主資本のことをequityと定義しているのか、というのがちょっと疑わしいな、と感じます。仮にそう定義しているにしても、なぜそう定義したのか、という理由があるはずで、それがequity lawに書かれているからequityである、というのは自己循環だと言わざるを得ないので、私はこの考えには賛同できません。

equityを株式自体、つまり個別の株券、あるいは市場で取引される証券としての株と言ったものに使うことはなく、それはあくまでも会計上の株主資本のことのみを指すようです。ここから考えるに、おそらく、会計でバランスシートを作る時に、資産から負債を引いた部分が株主資本になるわけで、つまりその差分を均等にする、という意味でequityという言葉が使われたのではないかな、と想像しました。それが、まさに多文化主義のトレンドに乗ったのかどうかはわかりませんが、株主資本をとりわけequityと呼ぶことで、株主資本が公平というようなイメージに乗っかかっているような印象を受けます。言葉の使い方、そして印象というのはその意図によってずいぶん変わってくるな、と感じました。

もう一つ、書かれたことが全てに適用されるequalityでも、常識の範囲内でしか救済されないequityでもない、個別の人の特性をしっかり見て対応するという「個尊(equispectedity)」なんて言葉ができたらいいんじゃないかな、などと妄想してみました(どっちも読みにくい!)。

なんか、コメントに関することよりも、自分の書きたいことをつらつら書いてしまっただけになってしまい、申し訳ありません。

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