数学的世界の現実応用不可能性

数学的世界が成り立つためには、当然全ての人がその数学的世界のルールに従う必要がある。それは、単に計算ができる、ということではなく、全ての人が自分の考えることを全て数学的に記述でき、そして他者のそれも含めて全て知っている、という状態であることを意味する。そんなことはどう考えても不可能で、だから経済学でも、その中のたった一部である情報の完全性というものすら実現できないのに、それが成り立つとして、という不可能な想定のもとで話を展開しようとする。要するに、数学的世界先にありきで現実を無理にそれに当てはめようとしているのだ。

まず、他者の考えの数学的記述を全て知っているなどという状態は訪れようもはずがない。誰が初めて会う人の考えの数学的記述をその瞬間に理解できようか。仮に理解していたとして、どうしてそれが全てであると信じることができようか。さらにそれが全てであると信じたとしても、それに対して数学的に適切な回答をどうして常に出せようか。数学の静学的安定性というのは、この、理解のプロセスを全てぶっ飛ばして、わかっていることを機械的に計算する、という、全く現実味のない、そして応用性のない、あえて言えば無意味な処理をすることから生まれているのだと言える。そんなことわかってりゃとっくにやっとるわ、と。

さらに言えば、数学的思考法をする人が好んで取り上げるゲーム理論に従えば、自らの数学的思考モデルを持っていたとしても、それを表に出さずにいかに自らの利益を極大化するためにそれを用いるか、ということが現実社会では行われることを示している。モデル的にはお互いの利益を極大化するためには双方がその数学的モデルを開放して協力関係を結ぶことが最適なのだが、そこに牢の看守のような仲介者が現れ、相手の考えていることが直接わからなくなると、どんなに数学的モデルを開放しても、そこから利益を鞘取りされるだけとなり、全く数学的に動かないことになる。つまり、数学的モデルは常に機能しないように干渉を受けるという現実的な対応があることを示しているのだ。数学的モデルがあっても、それが機能しないように作用する世界で、いかにして数学を応用できるのだろうか。

もっと難しいのは、全ての人が自分の考えを全て数学的に記述できる、という想定だ。考えのほんの一部でも数学的に記述するのはかなり骨が折れるのに、それを全て一貫してひとつの数学的モデルに統合して提示するなどということを一体誰が行えようか。それだけで十分に人生は短すぎるし、それをやったところで一体なんの意味があるのか、モデルができたら現実がその通り動くのか、そうだとしたらモデルができた瞬間に人生の意味を消失するということなのか。全くもって意味がわからないのだ。一体数学になんの意味があるのだろうか。

そんな無意味極まりない世界で、ひたすら計算能力だけを肥大させ、それによって得られた利益を競う、嗚呼、なんと素晴らしき世界か。計算能力の優劣が人の優劣を決める、それは「貧乏人は麦を食え」とも解釈された発言に象徴される”数字に強い”人物によって作られた世界において、コメが敬遠され、パン食が主流となっているという事実によって、現実の位置が端的に示されていると言える。パンが美味しくなったこと自体は良いとしても、それは”貧乏人”の方が工夫をして世界を楽しくしようとする、という皮肉な事実を示していることになり、それはすなわち計算能力が優れていることは、逆に社会的に劣っているのでは、という重大な疑念も浮かび上がらせる。それはそれで、計算能力向上を煽ることで、逆に皆が計算に頼らなくなって知恵を働かせるようになれば良いことなのかもしれないが。精緻に構築された数学的世界のもたらすメリットとは、人々が数学では表せない楽しさを見つけ出すよう工夫するようになる、ということなのかもしれない。

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