文脈を理解するとは何か ー 科学と非科学の分かれ目

文脈とは、個人ならば、その人がなぜそれまでの行動をし、これからどういう行動をするのかという、一連の行動の脈絡を示すものであると言え、科学的文脈ならば前提からそれに基づいた論理的な因果づけとなるし、人文学的文脈ならば典型的には伏線の回収のような意味づけとその解釈の積み重ねとなるのかもしれない。

理解の不可能性

では、その理解とは一体何なのか。理解というのは相互性なので、その定義自体が自己循環的であり、非常に難しい。つまり、理解したということを理解してもらうためにはどうするのか、という問題が常に付き纏うことになるということだ。その意味で、理解は常に不可能である、と言えるのかもしれない。理解は解釈であり、その解釈が妥当かどうかは再度意味づけに戻ることになり、またその解釈を行う、という終わりなき解釈の積み重ねが続くことになる。

断罪の危険性

断罪の危険性は、その無限の解釈ループの中に取り込まれざるを得なくなることだと言える。正邪の判断は常に一面的であり、一方的な判断によってそれを断ずることは、何らかの形で一面的価値観の押し付けとなる。多様な面から解釈を行い、総合的にはこう解釈できる、という、距離を置いた解釈の提示でないと、解釈の違いが決定的対立に繋がり、対立因果の無間地獄にはまってしまう。

理解できないことを解決することで理解に近づく

少し話が飛んだが、文脈を理解するとは、お互いの解釈の違いから対立因果の無間地獄にはまらないように、むしろ理解できないことを具体的に明示し、それを歯止めとしてそれはわからないからできない、という、解釈ループからの距離の置き方を示すことなのではないだろうか。
つまり、理解とは、わからないことをわからないとして提示し、それによってそれ以上他者の文脈には踏み込まない、という線を引くことなのではないか。理解が深まるとは、その線が少しずつ相手の内面に近づき、お互いが踏み込める領域が広がるということで、それはデジタル的に理解できた、できない、ということではないのではないか。

科学的文脈の表面理解の危険

その意味で、科学的文脈は、前提からの論理が明快であることを求められるので、あたかもデジタル的に理解できたかのように錯覚してしまいがちだが、実際にはその理屈の発見者は前提から論理構築に至るまでアナログ的試行錯誤、思考実験を繰り返してその文脈に至るわけであり、本当の意味での理解とは、そのアナログ部分の理解も含むことになる。それを省いて科学的文脈の表面的理解だけを先行させると、科学の暴走のようなことが起こり、どこで間違ったのかの検証ができなくなってしまう。それが、最近私が感じ、デジタル、インターネットの負の側面として何度か記事にしているものの背景なのではないか、と、ようやく自分に納得しつつある。

分離融合の実社会への実装

文理融合的な考えは、視野を広げるためには非常に有効なのであるが、実はこの科学的文脈に過度に人文学的文脈を持ち込む可能性があり、解釈の分かれる問題について科学的文脈の前提に組み込み、ありうるかどうかを社会的に実験する、という恐ろしい段階に入っているのではないかと感じる。つまり、前提の解釈について、それを組み込んだ社会実験を行い、社会全体がその前提を受け入れればそれは科学であると認定する、という在り方だ。

利益が左右する科学的前提

しかしながら、社会は権力や権威に大きく左右され、人の認識体系はそれらに大きく影響される。つまり、理解のベースを権力や権威に依存している部分が非常に大きいわけで、さらにそこに経済的功利主義や多数決の原則が加われば、勝ち馬に乗って利益を確保するという、ミクロの合理性に基づいた行動が、社会的実験の成果として正当化されるようになり、必然的に経済的に利益の出る科学的(!)前提を打ち立てることによって、それは科学となる可能性が非常に高くなる。つまり、科学はその論理構造上の正当性よりも、いかに利益の出るバリューチェーンと繋げるか、ということの方が重要となり、そして一旦そこにつなげてしまえば、それによって打ち立てられた”科学的”体系自体が権利の源泉となり、科学的前提の基礎が、非科学的な方向にどんどん広がってゆくことになる。それが相対性理論や量子論によって広がっている科学の世界なのだと言える。

理解の限界認識が守る科学の範囲

つまり、現代科学が科学であると主張しているのは、その前提が社会的錯覚によって理解されたと考えられたことに基づいているわけであり、その部分について、わからないことは率直にわからないと言っていかないと、科学はどんどん宗教化し、信じるものにしかわからない世界になっていってしまう。わからないことはわからない、嫌なことは嫌と、明確に主張してゆかないと、訳のわからない”科学的”前提に、どんどん心の奥底まで勝手に入り込まれ、それに支配されてゆくことになるだろう。科学を科学の範囲にとどめておくために、わからないことをわからないとして、それぞれが自分の理解の範囲をきちんと定めてゆく必要があるのではないだろうか。そして、それこそが本当の意味での科学的理解の広がり、深まりに繋がってゆくのだと私は考える。


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