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記憶の狭間を埋める旅(4)

明治のお雇い外国人(1)

国内はこのまま大正時代に入ってしまおうと思ったが、やはり国際情勢と時期を合わせながらの方が混乱が少なそうなので、明治時代の外国とのつながりを見るために、日本にやってきたお雇い外国人について見てみたい。

お雇い外国人は、日本の近代化に必要な西欧の先進技術や知識を単にもたらしただけではなく、彼らの日本滞在を通して日本人に海外の生活習慣を紹介し、また反対に日本の文化を海外に紹介する役割を果たした。
外国人雇用が本格化するのは幕末期で、欧米諸国から開国と通商の圧力が高まり、それに対し幕府は外交政策顧問としてオランダ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、長崎海軍伝習所にオランダからヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケらの教員、さらに横須賀造兵廠にフランスからレオンス・ヴェルニーらの技術者、燈台建設のためにイギリスからリチャード・ブラントンらの技術者を雇用した。

Wikipedia | お雇い外国人

幕末期のお雇い外国人

江戸時代から外国人が来ていたということになっているが、Wikipediaの記述を見る限りにおいては、ここに挙げられている四人のうち本当に活動実態がありそうなのは最後のリチャード・ブラントンくらいではないかと感じる。

感覚的なものなので、確実な証拠があるわけではないが、一人目のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、シーボルト事件で著名ではあるが、おそらくその息子のアレクサンダーが徳川昭武らのフランス派遣(パリ万国博覧会のため)に帯同したということで、そこからその父も日本にいたのだ、という話ができてきたのではないかと感じる。

二人目のカッテンディーケはのちにオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任し他、ということなので、その箔付けに日本での活動が用いられたのではないかと感じる。オランダの絡んだ話は、個人的に江戸時代のものからほとんど信用できないのではないかと感じており、よほどのリアリティがないと私は事実としては採用しないようにしている。

三人目のレオンス・ヴェルニーだが、次のリチャード・ブラントンの灯台設置の時間軸で考えると、江戸時代末期にそれに先立って造船所を作るというのはどうにも感覚的に合わない。むしろブラントンの灯台作りに被せる形でフランスはそれより先行していたのだ、という話を作ったのではないかと感じる。ブラントンにしても、東日本のものはどうも怪しいのではないかと感じる。

8年間の日本滞在中に、和歌山県串本町の樫野崎灯台を皮切りに26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船などの建設を指揮

Wikipedia | リチャード・ブラントン

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