空気を作りだす摩擦的長期シナリオ調整過程

社会の中で動く空気はいかに形成されるのだろうか。

イメージによる空気形成

まず、個別の人を取り巻く空気というのは、その人に対する周囲のイメージによって形成されると言えそうで、特に、ある権力的枠組みの中に落とし込もうという圧力がかかっており、そこから外れそうになった時には、その空気が強く作用するようになるのだろう。そこまでゆかなくても、とりわけケインズの美人投票的市場観の作用が一般社会にまで広がるにつれ、他者に向けた認識が活発に行き交うようになり、眼差しの交錯によって空気が敏感に感じられるようになる。人の目を意識する、というのは、このような空気感に合わせて自分にかかる摩擦や圧力を低減しようという行動であると言える。

積極的空気形成

短期的には、そのように人の目を意識することで空気感を薄めてゆくことができるが、そうなると人に合わせてばかりで主体性が失われてしまう。そこで自分という人間をいかに人に印象付けるかということが重要になってくる。つまり主体的に自分にかかってくる眼差し、すなわち自分に対する認識をコントロールすることで自らの印象を他者に積極的に植え付け、それによって空気自体を自分の思う通りに形成しようとする行動が意味をなすようになるのだと言えそう。

相互認識の形成

そこで、それぞれの個性が競合的でなければ、皆が自分の主体性に基づいて他者に対して自分の印象をうまく表現することで、多様な社会が形成されることになるが、実際には個別の人には認識限界があり、全ての人の個性を覚えておけるわけではない。だから、自分の認識の中により強く印象づけられ、言い方は悪いがうまく使えそうだ、という人は記憶に残り、自分の構想の中でどう動くのかを観察し、それが被認識者への個別の眼差しとなって、観察者の構想が被認識者にとっては空気となって具現化するようになる。その構想の中の動きをうまく表現してゆけば、観察者の中での印象が維持され、観察者と被認識者との間で空気感の共有がなされることになる。

トークンによる多数間相互認識

観察者の認識限界のために、被観察者への認識は個別具体的というよりも、トークン的に行われることになり、そこでそのトークンをめぐっての競争が激しさを増すことになる。人はより有利なトークンを得て、強力な観察者の下でより良い地位を得ようとし、その観察と競合が空気の乱れを引き起こす。強力な観察者とは、より多くの有利な地位を提供できる権力を持っている人であることが多くなる。だから、権力闘争が激しくなると空気の乱れがひどくなり、トークンの競合をめぐる競争によって摩擦が激しくなってゆく。

長期シナリオ調整過程としての平和的権力闘争

権力闘争とは、長期的シナリオの調整過程であるとも言える。つまり、自らの構想をどう動かしてゆくのか、ということが相互に激突し、それによってそれぞれの構想の中に自らを位置付けようとする人々も、そこから振り落とされまいとして必死に行動することで、認識が交錯し、構想をうまく運んだ人が権力を手にしてより有利な観察者の地位につき、それについていった人々もそれぞれ立場が強くなる、といったことになる。

攻撃的認識調整過程としての権力闘争

権力闘争は、そのような相対的に言えば平和的な認識調整過程だけに限らず、相手をいかに引き摺り下ろし、自分が有利な立場に立つか、といった構想とは別次元の、もっと空気自体に直接作用するようなスキャンダル的なものが扱われることも当然の如く多くなる。トークンをめぐっての競争は、構想の中を演劇的に進行するということがあり、その中にスキャンダルが入り込むと、自らの求めるトークンの中からその要素をいかに外すか、というババ抜き的な要素が発生し、それが空気の動きを複雑化させる。それは、トークン競合過程でフィルター化され、競争に積極的に参加するわけではない人のところにババのカスばかりが降りかかってくることになり、個別の人を取り巻く認識環境にそのババのカスが降り注ぎ、それが演劇化した日常の中に紛れ込んで、空気を読めない人にとってはかなりきつい状況が訪れることになる。

善悪価値判断の強要による空気感

スキャンダルは善悪の判断が問われ、その中で悪人になりきってその環境をうまく使える人は良いのだが、うまくその空気を処理できず、自分の原罪に近いところまでそれが浸透してくると、空気が自分の原罪を追求し続けているのではないかと思い込むようになり、どんどん追い込まれることになる。そこで、宗教的に罪を救ってもらう、というようなことにもなるのだろうが、宗教は価値観であり、その価値体系に自らを合わせるように、というさらに別の空気がのしかかってくることになる。
そのような空気の循環過程は社会をどんどん閉塞的にしてゆく。ある意味で、宗教が重きをなし、その価値観が重くのしかかってくるようになった社会というのは、俗世間の空気がもはや耐えがたいほどに閉塞しているという状況を示しているわけであり、社会としては末期症状に至っていると言えそうだ。

空気に左右されないために

そのような状況を防ぐために、まずは空気に左右されることなく自分のペースでの生活を保って行けるように自己を確立する、ということが必要になりそう。日常に、好き好みもしないのに演劇的な世界が入り込み、その中で演技を上手くしてババのカスを避け、有利なトークンを手に入れてゆかないと生活が成り立たないという状況は、空気に左右される、あまりに不安定な状況であると言え、それぞれがそんなことは無視して放っておいても大丈夫なような自己を確立してゆけば、日常演劇による空気の増幅を防ぐことができ、全体的に空気による閉塞感を弱めることができるだろう。

自然に自分を表現することで和らぐ空気

ついで、自らを他者に印象付けるというプロセスをあまりに強引に行うのではなく、もっと自然に自分が何を考え、何をやっているのか、ということを穏やかに表現できるようにする、そして社会環境がそのようになるよう整えてゆく必要があるのだろう。強引な自己アピールと力任せの実行力が問われるというような世界は、観察者の構想の中でもそういう強引な人物が目立って、それを用いざるを得なくなってゆくということにもなり、社会をどんどん力比べと競争の殺伐とした世界にしてゆく。そのプロセスをより穏やかにして、そのような強引さがなくてもそれぞれが自らの好きなことを実現できるようにしてゆけば、空気は和らぐことになるだろう。

協調的長期シナリオによる摩擦の少ない空気

さらには、観察者の構想の運び方も、権力抗争を伴うような摩擦的なものではなく、それぞれの構想がなるべく並立できるように協調的に運んでゆくことになれば、認識の乱れは極小化される。つまり、それぞれの長期的シナリオが明示されてそれぞれがそれに従って動く中で、短期的に摩擦が発生したらそれを解決してゆく、という調整過程を処理してゆくことで、空気の乱れを極小化しながら多くの人の並立的長期シナリオが安定的に推移する、という社会が実現されるのではないだろうか。

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