集団・組織の作り出す空気

人が集まるということは、なんらかの価値の固定を行うということになる。目的合理的組織ならば、共通目的に価値を固定して、それを前提に集団論理を組み立てればよい、ということになるが、完全に目的合理的な組織というのは、それが人間によって構成される以上、実現不可能であると言える。つまり、合意された目的以外に、合意に至らないさまざまな個性の違いというものが必ずあるので、そこで合意された価値観に対する立場の違いというものが現れ、完全目的合理的組織の成立を阻害する。

組織とまでしっかりしたものではなくとも、集団というのは多かれ少なかれ、なんらかの価値観に基づいて集まっているものであり、それが宗教ならば道徳律のようなもの、民族ならば共通の歴史観、法に基づく集団ならばその法やそれに基づく規則、といった具合に、それぞれ価値観のコード体系のようなものがあり、それに従って明示、暗黙の価値基準の網が張り巡らされ、それに従わざるを得なくなる。

それは、大きな集団になればなるほどその構成員の個性を全て言語化して明示し伝達するということが難しくなり、暗黙の基準の範囲がどんどん広がり、それが濃密化する。あるいは社会が不信感に満ち、万人の万人に対する闘争のような状態になると、言語化すること自体が自らに不利となり、そのために暗黙の表現によって意思伝達する、ということが常態化する。それはまさに”空気”と呼べるようなものであり、空気に支配された集団、社会は、個々の意志が抑圧され、雰囲気に従って動くことが合理的とされる、個々人にとってみれば非常に不合理なものとなる。それは、個のための集団ではなく、集団を成り立たせるための部品としての個となり、本末転倒したものとなるのだ。

その意味で、暗黙で意思を伝えないとならなくなった時点で組織としての効率性はもはや限界に達しているのだと言える。効率性を求めるわけではない集団ならばそれでもよいだろうが、暗黙の意志と効率性を両立させようとなると、なんらかの規律に基づいた指揮系統そして報酬体系が必須となり、その鞭と飴によって、構成員は自分の意思を押し殺し、暗黙の空気に忍従し、そうして自分の価値基準を削りに削ることで報酬を得、組織の構成員としての安定を手に入れることになる。その意味で、そうして成し遂げられた効率性は、あくまでも組織・集団にとっての効率性・合理性であり、個人にとってのそれではない。そのような組織・集団に属することは、果たして人にとって幸せなのであろうか。

言葉にできない意思というのは、えてしてあえて言葉にしたくない、つまり触れられたくないことを含んでおり、それが集団全体で共有されているのならば、集団としてなんらかのやましい価値観を共有している、まさに原罪的なもので繋がっていることになるし、集団の指導者のみのそれならば、「知らしむべからず、依らしむべし」の権威主義の元となる。いずれにしても、空気が気持ちが悪い、肌に合わない、と思ったら、集団と自分との間になんらかの価値観の齟齬がある可能性が非常に高く、それに我慢して集団に属し続けるということは、価値観の搾取を受容しているということに他ならない。

それは、大きなところでは、グローバル社会を”普遍的価値基準”によって統合する、ということにもなるし、あるいは利益という客観基準で企業を一律に評価する、ということにもなる。本来ならば多様な目的を追求すべき目的合理性組織が、利益という単一の尺度で評価されることで、本来の個別企業の目標よりも利益が優先されてその価値観がベースとなって空気を形成するということになり、そしてその企業の行動規範は普遍的価値基準によって縛られるという、二重に縛られた価値観の檻の中で形成された空気に完全に取り囲まれてしまうのだ。

そしてその価値基準ヒエラルキーで優位に立つためには、個別の価値観をうまく普遍的価値基準の中に織り込んで空気の中に紛れ込ませ、そしてその普遍性を持って他者に自分の価値観を暗黙のうちに押し付ける、という行動が合理化される。触れられたくないことは、普遍的価値基準で覆い隠してしまえば空気の中に紛れ込ませることができ、一旦そうしてしまえば普遍的価値基準という高くて厚い壁をぶち破らないとそこには到達できず、そのためにそのやましいところを空気で他者に押し付けることになり、ヒエラルキーの下層にあたるものは、自らに由来するわけでもないその不快さを甘んじて受けないといけなくなる。

さらにそこにニーチェ的意志の力が加わることで、その不快さに対する反発心をエネルギーの元にする、というなんともやりきれないことがおこなわれ、本来の不快さの元ではないところに怒りをぶつけることによって得られる爽快感を与えることで不快さの本質をごまかすという管理手法がとられることになり、指示された敵をやっつける、あるいはそこまで行かなくても与えられた仕事をとにかく片付けるよう強いられ、そしてそうしなければほぼ生活の糧も得られないということになれば、要するに組織のやましさをごまかす、もみ消し工作のために不快な思いをして、不快な”労働”を続けなければならないということになる。

そうなると、労働と個の価値観が一致するという状況は限られた人にしか訪れず、多くはその管理者層のやましさをもみ消すための雑用を代わりに片付けさせられるという不快な仕事の代償として給料を得る、ということになる。つまり、暗黙の空気で仕事が流れる組織というのは、空気の中の不快さを下の層に押し付けるために存在しているようなもので、その不快さの理由を辿ることもなくただ受け入れる、ということが、空気の中に隠された集団の原罪を受け入れること、その一味となることとなるのだ。その中で、他者を怠け者と非難し、実力主義の名の下で利益の評価基準に適合したものを引き上げるということは、普遍的価値基準の奴隷となってミツバチの如く利益をそこに集めれば評価されるということになり、それはそれぞれの心の中のモラル感を麻痺させ、普遍的価値基準以外の価値観を持つことができなくなることを意味する。

価値観というのは、明らかに立場によって異なり、それを一つに統一するなどというのは人をロボットにするのと同じことである。集団とは、自らの一部をロボットのようにその集団に合わせることで成り立つが、それがあまりに大きくなると、自らが完全にロボットの一部になってしまう。そのような集団、あるいはもっと縛りのきつい組織というのは、それ自体人の心を殺すことによって存在していると言える。だから、必要以上に大きな集団、縛りのきつい組織などは害悪しかもたらさず、さらにそれを上で縛り付けるような客観的評価基準、普遍的価値基準などというものは、その組織を搾取している管理者の自己満足以外の何ももたらさず、そのような搾取を容易にするような基準は、人類の歴史に大きな汚点を残すものではないかとすら私は考える。

個々人を尊重し、集団や組織はなるべく小さくゆるく、普遍的や客観的という大袈裟な言葉に縛られない、そんな人間そのものを大事にする世界になってほしいものだ。

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