見出し画像

【Lonely Wikipedia】十七か条協定

引き続き

1950年10月25日、中華人民共和国政府は中国人民解放軍のチベットへの進駐を宣言した。これはチャムド侵攻から17日も経ってからのことだった。 翌10月26日、インド政府はこれを「侵略行為」として非難の政府声明を発表し、イギリス政府もこれを支持したが、両国はチベットへの軍事支援については触れず、実際に軍事支援を差し伸べることは無かった。

これは、第18軍の行動が中央人民政府、あるいは中共中央軍事委員会の許可を受けずに行動していたことの表れと言えるのではないか。これによって中央人民政府とイギリスやインドとの関係に微妙な影が差すようになる。

そして、この10月25日という日は、朝鮮戦争で19日に密かに鴨緑江を渡った中国の人民志願軍が国連軍と初めて交戦した日でもある。前回書いた9月19日の張経国の中央軍事委員会事務局主任就任というのは、この朝鮮戦争参戦を睨んでのことであると考えられ、そこで第一書記が抜けたことを見計らって第二書記の張国華が独断でチャムド進出を決めたのだと考えられそう。そしてチャムドの戦いの真っ最中である10月8日から18日にかけて、周恩来を中心とした使節団はモスクワを訪れており、チベットで起こっていることは把握していなかったとも考えられる。だから、チベットへの進駐宣言は、人民解放軍のチベットでの暴走を牽制するという意味もあったのかもしれない。

さらには、毛沢東が周恩来を全体司令官に任命したのは11月13日だともされ、そうなると朝鮮戦争参戦も毛沢東が独断で先行して行った可能性もある。そんな状態で、よくぞ朝鮮の局地戦で収まったものだと感心する。実際11月30日にはマッカーサーが核兵器の使用を示唆しているという。しかしながら、この辺りのマッカーサーの常軌を逸しているとも思える言動はあまりに不自然で、中国の参戦による全面戦争を避けるためにあらゆる努力をしたのがトルーマンの気に障り、それによって最終的には解任され、そしてその原因としての異常な言動の記録も甘んじて受け入れたのではないか、と感じるが、それは個人的直感に過ぎない。

明けて51年1月17日、中国義勇軍と北朝鮮軍がソウルを占領し、1週間後の25日から朝鮮戦争の第四次戦役が始まった。これは、外交戦の様相も呈し、2月1日に国連総会で中国が朝鮮戦争の侵略者だと名指しした国連決議第498号が採択された。3月7日には国連軍の反攻が始まり、14日にソウルを再占領した。これによって38度線にて両軍を分けるという状態がほぼ確立し、それを受けて4月11日にマッカーサーが解任され、21日に第四次戦役が終わった。

1950年11月7日(あるいは10月17日)、摂政タクタ・リンポチェ・ガワン・スンラプは引退し、テンジン・ギャムツォは成人の18歳に達しておらず(16歳)、本人は望まなかったが、国王としての親政を開始した。そしてラサ議会の示唆に従い、インド国境のヤトンに避難した。
同1950年11月7日、チベットのラサ政府は国際連合に対して中華人民共和国による侵略を訴えたが、国際連合は、国連軍を組織してまで関与していた朝鮮戦争への対応が精一杯で、チベットに介入する余裕は無かった。
1950年11月9日、中国共産党中央は、中央チベット攻略作戦(「チベット全域解放作戦」と呼称)を準備しつつ、チベット政府との交渉を続けた。

10月24日にチャムドを落として、共産党がチベット入りの準備をする中で、摂政が引退し、ダライ・ラマ14世が16歳で親政、しかもその時点でラサではなくインド国境のヤトンに移っている。なお、辞任した摂政の名は、同一人物なのかはわからないが、Taktra Ngawang Sungrab Thutob(达扎·阿旺松绕图多旦巴杰增)という人物のようだ。

继任摄政后,达扎一改热振在任时同国民政府的友好姿态,傾向英属印度当局,并积极推動西藏独立。

ということで、日中戦争中の1941年1月に摂政を継いで、国民政府との友好的な姿勢を一変させ、英領インド当局に肩入れし、チベット独立を積極的に推進した、とのこと。これは、ダライ・ラマ14世が即位した翌年のことで、ダライ・ラマ13世の時代の独立性を復活させようとしたものだろう。

1942年7月,西藏噶厦宣布成立“外交局”,并致电各國驻藏办事处,要求此后一切往来均须同外交局洽办,不得再同噶厦发生直接往来。

1942年7月に外交局を作って国民政府と対立したようだ。

1944年12月,噶厦和色拉寺杰扎仓、阿巴扎仓由于林周宗事件正在处于激烈对抗之中,原摄政热振来到拉萨主持色拉寺一扎仓大殿的落成仪式,并面见达扎,希望达扎按照约定将摄政权力归还热振。但是达扎拒绝了热振的还政要求。

どうもこの摂政は、前任から無理やりその座を横取りしたようだ。ダライ・ラマ14世の即位に伴い、3年間の期間限定、ということで摂政の座についている間に好き放題をし、摂政を返してくれ、と言われたら、それを断って逆に逮捕するという暴挙を行なったらしい。そのほかにも色々やって、最後には49年7月に国民政府の蒙蔵委員会をラサから追い出すということまでした。中央政府としては、そこまで喧嘩を売られて黙っているわけにもいかないという面もあったのだろう。

そして摂政は人民解放軍が迫ってきたところで辞任して禊を済ませたことにし、ダライ・ラマ14世の親政への道を開いたのだろう。

そんなラサの政府から国連への依頼が届くわけだが、流石にそれを取り上げるわけにもいかないだろう。なお、チベットはもちろん、中華人民共和国すらもまだ国連の加盟は認められていなかった。

この時に、エルサルバドルだけはこの問題を提起するよう主張したという。当時は軍事独裁政権で、政治が安定しているとは言い難かったが、かつて日本に次いで二番目に満州国を承認したことがあり、2018年8月21日まで中華民国と国交を持っていた。自由主義の意識の強い国のようで、共産主義アレルギーがあるのかもしれない。また、中央アメリカ連邦共和国の動きの中心になるなど、小国だけに連邦制度のようなものに寄せる信頼感が厚いのかもしれない。

一方で東チベットには、1950年12月15日、西康省蔵族自治区、青海省人民政府等が設置された。自治区なので、省として完全に中央の管轄下に置くことに比べれば、かなり緩やかな制度が導入されたと考えるべきではないか。

チャムドには

中共軍は、中央チベットへの軍事侵攻の拠点として1951年1月1日、チャムドに人民解放委員会を設立した。主任は王其梅、副主任にンガプー・ンガワン・ジクメが就任した。

とされるが、これはどうも現地の第18軍による独断のような感じだ。というのも、ジクメというのは、前回見たように、チャムドの武器庫に火をつけたとされる人物であり、それが副主任となれば当然荒れることになるからだ。チャムドを抑圧したのは、現地の第18軍であったと考えて良いのだろう。

1951年4月、北京を訪れたチベット代表団を当時の中国首相周恩来が迎えた。交渉は、中国民族委員会主席の李維漢とジクメが進行した。

このジクメが民族委員会との交渉に臨むことになる。
中国語版のWikipediaにこの交渉のことについて何も出てこないというところにその闇の深さが窺える。

この間、2月にチベットの隣のネパールで革命が起きている。

インドはこの仲介をしており、隣のチベットでややこしいことをしてくれるな、というのが本音のところではなかっただろうか。

とにかく、3月で一応朝鮮戦争が小康状態に入ったということで、4月からチベット問題の話し合いが始まった。

1951年5月23日,五人代表团在没有向西藏政府汇报的情况下,代表西藏政府签订了《中央人民政府和西藏地方政府关於和平解放西藏办法的协议》,一共十七条。代表没有向西藏政府汇报的原因,是阿沛·阿旺晋美認為西藏無力在軍事上抵抗解放軍的進攻,而又無法取得外國援助,因此達成協議以爭取有利條件,这比遵守政府指示汇报重要,其他代表也一致同意。
美國國務院認為,即使西藏代表团沒有受到脅迫,達賴喇嘛仍然有各種理由可以否定他們簽的協议。但達賴喇嘛於1951年5月27日從北京的廣播中得知此消息後,1951年8月,達賴喇嘛和大部分貴族回到拉薩,並和中共合作。達賴喇嘛於1951年10月24日致電中國共產黨中央委員會主席毛澤東,表示同意十七條協議;兩天後毛澤東覆電祝賀,同日解放軍進入拉薩,中共此後稱為和平解放。
1959年藏區騷亂後,達賴喇嘛流亡印度,便於1959年6月20日重新發了一份聲明,稱「十七條協議」是西藏政府和西藏人民在「武力下逼迫」簽訂的,後來合作的時候中國中央政府也沒有遵守協議,宣佈不承認「十七條協議」。後來西藏流亡政府指,当年由阿沛·阿旺晉美率领的5人谈判代表团,是在中共当局的逼迫下和北京签署17条和平协议。当时他们在无法通知西藏政府的情况下,代表團的代表是以个人名义在协议上签名,文件上的印章没有代表的正式官衔,雖然是西藏代表團但代表不能代表西藏。

流石にこれは常識的には受け入れ難い。もともと代表権もなく交渉に臨み、そしてダライ・ラマ14世が毛沢東に同意の意思表示をしておきながら、代表団の方が強制的に署名させられたと主張して無効を申し立てたのだとか。こんなことをする相手に交渉も何もあったものではない。

英語版には協定全文内容もある。

全体的にフェアな協定なように思え、強制されたと主張できる要素は私には見当たらない。まあ、チベット側とすれば、外交や軍事、そしてパンチェン・ラマの扱いなどについては不満はあるのだろうが、それでも軍事権はほとんどチベットに属するといってもいいような内容であり、これで文句を言ったら何もまとまらないだろう。

5月23日に十七か条協定が締結されたが、結局これは更なる動乱のための第一歩にしか過ぎないことになる。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。