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【Lonely Wikipedia】中華人民共和国

成立
中華人民共和国は、中華民国統治下の中国で1921年に結党された中国共産党ソビエト連邦の支援を受けながら、国共合作日中戦争国共内戦を経て中華民国政府台湾島へ放逐し、1949年10月1日に毛沢東が北京市天安門広場建国宣言を行ったことで成立した。

となっているが、これは実はもっと丁寧に見る必要がある。
まずは国共内戦より

1949年1月、蔣介石が三大戦役での敗走の責任をとって総統を辞任すると、副総統だった李宗仁が総統(代理)に就任し、同年4月1日に共産党との和平交渉団を南京から北平(北京)に派遣して北平和談(中国語版)を行い、交渉団が最終案である国内和平協定(中国語Wikisource)を持ち帰ってきた。しかし、同年4月20日に国民党は署名を拒否する電報を共産党に打って交渉は決裂し、同年4月23日には渡江戦役(中国語版)で人民解放軍によって首都・南京を占領されたのを皮切りに、漢口(同年5月16日)、西安(5月20日)、上海(5月27日)、青島(6月12日)を人民解放軍がなし崩し的に占領していった。さらにアメジスト号事件(4月20日)においてはアヘン戦争以来中国に駐留していたイギリス艦隊を撤退させた。
国民党に代わる「新中国」建設の準備を進めていた共産党は、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言したが、この時点で国民党はまだ華南三省と西南部三省の広範囲を支配していた。

中国最大の政党であった国民党の蔣介石が総裁を辞任し、代わりに李宗仁が総統となることで共産党との和平交渉が始まった。そして国内和平協定が出てくるわけだが、これは内戦の責任が全て国民党側にあると言うことが最初の前提となっており、とてもではないが国民党側が受け入れられるような内容ではなかった。李は蔣介石とは敵対的で、さらには後に 台湾をアメリカ合衆国51番目の州にすることを提案するなど、とてもまっとうな神経を持った人物とは思えない。これは、勝手に共産党に寝返って、国民党を売ったものではないかと疑われる。

それとは別に華北においては、48年に出来た 华北人民政府(中国語版)が中心となって、第1期政協第1回全体会議(中国語版)を開いた。

1946年1月10日に蔣介石毛沢東双十協定に基づいて前身の政治協商会議(中国語版)が重慶で開催され、和平建国綱領(中国語版)を採択するもその後の国共内戦で解散する。そして1949年9月21日に第1期政協第1回全体会議(中国語版)が北平(現在の北京)で開催された。国家の最高権力機関としての職権を代行し、以下の事項を決定した。
* 臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領(中国語版Wikisource)」を採択
* 中央人民政府主席毛沢東を選出
* 北平を北京と改名して首都に定める
* 西暦を採用
* 10月1日を国慶節に決定
* 『義勇軍進行曲』を仮の国歌と決定
* 五星紅旗国旗に決定

ここで、なぜか華北人民政府とは全く関係のない毛沢東が突然中華人民共和国の成立を宣言し、それによって共産党による人民政府の乗っ取りが始まる。この会議で決まった一番重要なのは、一番上の「中国人民政治協商会議共同綱領」であり、

この「共同綱領」では、中華人民共和国を「新民主主義すなわち人民民主主義の国家」と規定した。このことは、同綱領第1条が「中華人民共和国は新民主主義、すなわち人民民主主義の国家であって、労働者階級が指導し、労農同盟を基礎とし、民主的諸階級と国内諸民族を集結した人民民主主義独裁を実行し、帝国主義・封建主義・官僚資本主義に反対し、中国の独立、民主、平和、統一、および富強のために奮闘する」と規定していたことからも伺える。

つまり、中華人民共和国とは民主主義の国家であると定義した共同綱領が採択された、という事である。そしてこの綱領の起草者51人の中に毛沢東の名前はない。共産党では、53年に毛沢東が社会主義移行を打ち出した時にこの共同綱領が無効になったと解釈しているようだが、54年憲法には、

這個憲法以1949年的中國人民政治協商會議共同綱領為基礎,又是共同綱領的發展。

とあり、これをどう解釈するか、という問題になりそう。
これは、共同綱領の

中國人民政治協商會議一致同意以新民主主義即人民民主主義為中華人民共和國建國的政治基礎,並制定以下的共同綱領,凡參加人民政治協商會議的各單位、各級人民政府和全國人民均應共同遵守。

にある、新民主主義即人民民主主義というのをどう考えるのか、ということで、これを建国の政治基礎とした中華人民共和国を過渡期後の理想像とするのか、それともその政治基礎自体を過渡期とするのか、ということなのだろう。共産党としては、人民民主主義というのが、2018年憲法で定められたような、共産党による導領に基づく全国人民代表者会議での意思決定であると考えると定義したいのであろうが、それは少なくとも共同綱領の時点での合意事項ではなく、54年憲法においても確定はしていなかったということだと言える。

そもそも、共同綱領があったのに、なぜ54年憲法が新たに作られたのか。どうも、ここで、共産党による”合法的”クーデターのようなものがあったのではないかと考えられる。共同綱領自体は、毛沢東が起草者に名前を連ねていないとはいえ、かなり共産党に配慮したものであったと言える。それは、筆頭者であった周恩来が、共産党にも受け入れやすいように、ということで知恵を絞った結果であると考えられる。

一方毛沢東は、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明した。これは、サンフランシスコ平和条約(=日本国との平和条約)発効の7時間30分前である1952年4月28日に台北で調印された日華平和条約が8月5日に発効し、国民党政府の国際法上の領域が定められたのを受けてのことだと考えられる。それに対して 9月18日にソヴィエト連邦は日本の国際連合加盟申請に拒否権を発動しており、この条約の影響の大きさが窺われる。これによって、国連軍による大陸進出の理屈としての日本、あるいは中華民国による集団的自衛権が発動し得なくなり、日本の大陸への関与を失わせることとなり、共産党の自由度が増す、ということになったのだ。周恩来が一つの中国にこだわっていた元には、この条約制定時の話が54年憲法に直結していた、ということがあったのだろう。

1952年12月1日,中共中央下发了《关于召开党的全国代表会议的通知》,通知认为召开全国人民代表大会和制定宪法的条件已经具备,准备立宪。1952年12月24日,第一届全国政协常委会第四十三次会议上,周恩来代表中国共产党提议起草宪法;人民政协通过了这一提议。

そしてさらに1952年12月1日に中国共産党中央委員会が全国人民代表大会の召集と憲法制定の条件が整ったとの通達を出し、憲法制定の準備が出来た。1952年12月24日、中国人民政治協商会議第一期全国委員会常務委員会第43回会議で、周恩来が中国共産党を代表して憲法の起草を提案し、人民政治協商会議はこれを採択した。つまり、周恩来は、共産党を代表して共同綱領を憲法草案として人民代表者会議にかけようとしていたのだと考えられる。

一方共産党は、

1953年1月1日,中共中央机关报《人民日报》把制定宪法列为1953年的三项任务之一。1953年1月13日,中央人民政府委员会第二十次会议决定由毛泽东领导的等三十余人组成宪法起草委员会,即形式上制宪机关为中央人民政府。1953年底,毛泽东率宪法起草小组入住西湖国宾馆。

1953年1月1日、中国共産党中央委員会の機関紙である『人民日報』は、憲法制定を1953年の3つの課題の一つとして挙げた。1953年1月13日、中央人民政府委員会第20回会議は、毛沢東を含む30人以上の人々で憲法起草委員会、すなわち正式な憲法制定機関を結成することを決定した。

约有一亿五千万人参与了首部宪法的讨论,提出的意见有138万多条。另有各省、市、县人民代表大会的596万多名代表也发表了意见。根据征求所得的意见,宪法起草委员会对原来的草案作了修改后,交中央人民政府委员会举行临时会议讨论通过,形成了宪法送审稿。
1954年1月15日,毛泽东致电刘少奇等中央领导,在电报里开列了10种中外各类宪法的书目(后称“中外宪法书目”),要求中共中央政治局委员和在京的中共中央委员抽时间阅读:
1. 1936年苏联宪法及斯大林报告;
2. 1918年苏俄宪法;
3. 罗马尼亚、波兰、东德、捷克斯洛伐克等东欧社会主义国家宪法;
4. 1913年中华民国宪法草案
5. 1923年中华民国宪法
6. 1946年中华民国宪法;
7. 1946年法国宪法。

それで、議論を集め、自分たちの案を中央委員会に提出し、共産党案とした上で、劉少奇らに過去の憲法や他国の憲法を読むように言い、結局共同綱領を無視する形で

1954年6月14日,中央人民政府委员会第30次会议通过《中华人民共和国宪法草案》和关于公布宪法草案的决议

として憲法草案として全人代にかけるものとしてしまったのだと考えられるのだ。それは、実務機関であると定められたはずの中国人民政治協商会議よりも、党の方が優越するというまさに人治の仕組を作り出した瞬間であると言える。この間、53年3月9日にはスターリンが没している。

これは、朝鮮戦争が終わり、帰国してくる人民志願軍の武力を背景にしたものであるとも考えられる。54年9月6日に撤退が発表され、順次撤退、そして9月20日に54年憲法が採択、即日公布と言うことになったのだ。なお、アメリカと撤退問題を協議した1954年4月からのジュネーヴ会談において合意に至らぬまま撤兵が発表されたと言うことで、いかに共産党が焦っていたかがわかる。

9月27日、毛沢東は憲法に基づいて新たに設置された国家主席に就任した。なお、首相である国務院総理には周恩来が改めて就任し、全人代常務委員長に劉少奇、国家副主席には朱徳が任命された。また、国務院副総理10名すべてが共産党員であり、全人代副委員長や国務院の閣僚クラスにおける非共産党員の割合が大幅に減少するなど、国家の要職は中国共産党が独占した。

この時点で、人民政治協商会議が完全に共産党の下部組織とされ、そのメンバーだった周恩来らも必然的に共産党に参加させられることとなった。実際共同綱領を共産党代表として提出しているわけであり、そこから逃れる術はなかったのだろう。そして、周恩来は実務を司る国務院を拠点とすることを決めたのであろう。

国家主席に就任した毛沢東は、労働改造所を設置して自己に対する反対勢力を粛清していく。1956年2月にソ連共産党第一書記フルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開した。しかし、多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。
反右派闘争によって共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざした。毛は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進政策は失敗し、続いて「3ケ年自然災害」が発生。大躍進政策発動から数年間で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した(中華人民共和国大飢饉)。

スターリン批判後に大粛正の中国版とも言える反右派闘争が始まったことになる。毛沢東は、スターリンの死後に、それをなぞったかのようにソ連の後追いに傾斜していったのだ。

中ソ対立
スターリン批判や対米政策をめぐって毛沢東はソ連共産党第一書記のフルシチョフと不仲となり、1950年代後半から中ソ対立が深刻化していった。1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、1962年キューバ危機では、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難した。さらに1963年からは中国共産党とソ連共産党の公開論争が開始されてイデオロギー面の対立も深まるなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなり、毛沢東はかつて自ら掲げた「向ソ一辺倒」と決別して自力更生を掲げるようになった。理論面でも3つの世界論を唱えてソ連や米国と一線を画す第三世界に中華人民共和国を分類した。また、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連に対する中華人民共和国の優越性を示すとして清朝最後の皇帝で日本の傀儡国家満州国の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀思想改造して今度は共産党の傀儡にすることで政治的に利用した。

ソ連での反党グループの追放に伴い、毛沢東に近かった世界同時革命論者の勢力が一気に退いていったと言えそう。このあたりの毛沢東のソ連観と周恩来とのそれの違いは意識すべきなのだろう。そして、この中国の離反がおそらく決定的要因となり、64年10月にフルシチョフが 「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長の両方を辞任することに同意したという。このあたりはもっといろいろな背景がありそうだが、それはここでの論点から外れるので深入りはしない。

1969年3月には中ソ国境紛争が発生、両国は交戦するに至り、核戦争の可能性も起きた。

一方中国国内では、

文化大革命(ぶんかだいかくめい)とは、中華人民共和国1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた、中国共産党中央委員会主席毛沢東主導による文化改革運動を装った毛沢東の奪権運動、政治闘争である。全称は無産階級文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命、繁体字: 無產階級文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)。
名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動だった。実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動や大衆を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための官製暴動であり、中国共産党内部での権力闘争だった。それを毛自身がスチューデント・パワーベトナム戦争への反戦運動などに沸騰する世界と巧みに結びつけた。それにより毛沢東自身の著書「毛主席語録」は三十カ国以上に翻訳される大ベストセラーとなり、世界に農本思想的な「毛沢東思想」を強く印象づけ、各国の知識人やフランス五月革命などの政治・社会運動、対抗文化にも大きな影響を与えた。文化大革命終結後の1978年鄧小平は中国の新しい最重要指導者となり、文化革命に関連する毛沢東主義の政策を徐々に解体した。また鄧小平は、文化大革命によって疲労した中国経済を立て直すために、改革開放を開始することによって市場経済体制への移行を試みた。

これは、Wikipediaからは追えなかったが、たぶん劉少奇というのは毛沢東派で、毛沢東が自身への批判をそらすために劉に国家主席の座を譲って矢面に立たせたのではないかと考えられる。経済改革路線は鄧小平が担い、政治的な部分を劉少奇が行ったとみられる。
69年の劉少奇の死と、その後の林彪の台頭に伴い、

国家主席の廃止(こっかしゅせきのはいし)は、中国文化大革命中の1969年から1971年にかけて発生した重要な歴史的事件で、中国共産党中央委員会主席毛沢東国家主席の制度を廃止すると主張したのに対して、党副主席で党内序列2位だった林彪が国家主席を維持・任命すると主張した政治闘争である。

の混乱が起き、その最中にニクソンショックの訪中発表があって、

林彪事件(りんぴょうじけん)は、1971年に発生した、中華人民共和国林彪中国共産党中央委員会副主席による、毛沢東共産党主席暗殺未遂及びクーデター未遂事件、及びその後の亡命未遂事件。「9・13事件」とも呼ばれる。

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