地動説というけれど

コペルニクス的転回によって、天動説は地動説に取って代わられ、それは常識となっている。人間が地球の動きから逃れることができないときに、地動説というのは実感とはそぐわないが、天の動きを詳細に見るとそういう結論に至らざるを得なくなる。

とは言っても、例えば風速のようなものは地面は静止しているものとして、そことの速さの違いによって測ることになり、地動説はとっていない。速さというもの自体、地面が動いている、ということになったら計測が非常に難しくなる。時間が地球の自転速度によって定義されているときに、その動いている地球上での移動速度とはいったい何を意味するのか。動いていない地面の距離を前提に、動いている地球の速度から割り出した時間によって速度を計測する、というのは、絶対とも相対とも言い難いものになる。

つまり、光の速度を計測するにしても、厳密に言えば、観察の始点は、地動説に基けば時間によって移動しているわけで、そのときに絶対的な速度とはいったい何を意味するのか、という問題が発生するのだろう。終点に達したときに始点の位置が変わるものの始点と終点をいったい誰がどのように定めることができるのか。

その意味で、相対性理論というのは、初めから現実離れしている。そしてその間違った物差しで世界を規格化しようとすれば、歪みがそこらじゅうに出て当然なのだ。その顕著な例が量子論との非整合性であろう。始点の不定性というものを考慮に入れれば、素粒子が粒子のようでも波のようでもあるという現象も説明できる。始点。終点を固定すれば粒子であろうし、始点が動いているとすれば線のように、そしてさらに終点も動いていれば波のようにも見えるだろう。つまり、ミクロの世界は、視点、そして対象が動いているか否かによって見え方は大きく変わる可能性があるわけで、その部分を捨象した相対性理論的な考えでは量子の世界は見えるわけがないのだ。

ミクロの世界が絶対的基準に基づいた一般法則に依っているのならば、世の多様性などは理論的に起きようもなく、この多様な世界をあるがままに観察すれば、そこに一般法則など有り得ようはずもないことは理解できよう。仮に一般法則があったとしても、それは主観的視点からは究極的には決して観察することはできない。その意味で、一般量子論は成立し得ず、量子論の見ている世界は常に特殊事例であるといえる。特殊事例を引き出してはそれを理論化しようとする、という、まさに木を見て森を見ず、ということを実地で行っているのが量子論研究と言えるのではないか。

自然科学の分野でも一般法則は論理的に不可能なのにも関わらず、さらに相互作用が強く働く社会科学を一般法則に当てはめようとすることがいかに愚かなことか。社会は、規格化による”理想的”社会の押し付けではなく、個別対話による個別の理想の実現がなされる場でなければ、社会あって人なし、という本末転倒したことになってしまう。理想社会を構想するのは悪いことではないが、それを権力を用いて押し付けるようなことはあってはならないし、理想社会への主導権をめぐって競争やら戦いやらが行われるのは、それ自体全く理想的ではない。

天動説、地動説というのは社会科学的には主権がどこに存するかの問題だと言い換えられそうで、国や王、あるいは神が主権を持つというのが天動説であるとすれば、一般的な”国民””市民”が主権を持つというのが地動説だと言える。しかしながら、一般的な国民や市民は存在せず、そこにいるのは一人一人の個人である。主権在民、国民主権の名の下に権力行使を正当化する代表政間接民主制度は、地動説に基づいて科学を精緻化させた相対性理論や量子論の世界を社会科学的に再現したものであると言え、その限界は認識されるべきなのだろう。天動説であれ、地動説であれ、絶対的理論などというものはまず存在せず、理論は常に疑ってかかるべきなのであろう。

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