無駄を生み出し続ける組織

組織というのは、価値観が統一されることで、その価値観に向けて合理的に行動するよう最適化されてゆくと考えられる。しかしながら、果たしてそのマクロの合理性はミクロの合理性と一致しうるのだろうか。そこでの合成の誤謬は一体どのように処理されるのだろうか。

組織におけるミクロ合理性

組織において、典型的な価値観は、株式会社における利益なのだと言えよう。会社組織におけるマクロの合理性である利益の極大化を推し進めれば、当然の如くコストセンター的な機能は外部化されたり、あるいはプロフィットセンターにおいても経費削減圧力が強くなったりする。利益というのは短期的に実現されるものではなく、継続的投資行動の結果として利益につながるという、長期的な見通しが求められる。しかしながら、その長期的見通しを持てるのは経営陣をはじめとした上層部であり、そこから階層的にその見通しに従った行動に細分化されて、下層になればなるほどミクロの合理性から離れた、上層部のマクロの合理性の部品のような扱いとなってゆく。そうなった時に、下層に属する人々は果たして合理的行動であると考えて日々の行動を行うことができるのであろうか?

これは株式会社に限らず、むしろビジョンオリエンテッドな組織になればなるほど、そのビジョンに近い位置にある人の考えが強く押し出されるようになり、そんな組織が大きくなると、微妙な考え方の違いであっても、それがミクロ的な合理的行動においては非常に大きな違いとなることが起こり得るようになり、組織における合成の誤謬は大きくなってゆくと言える。

組織における合成の誤謬の解消法

この合成の誤謬は、組織において合理性追求を犠牲にしてでも得られるケイパビリティが大きい時には、その学習というのをミクロの合理性目標に切り替えることで、合成の誤謬はケイパビリティを獲得するまでの一定期間は表面化せずに済むのだろう。しかしながら、ケイパビリティ開発が天井に近くなると、ミクロの合理性の行き場が次第に失われ、組織に所属する意味というのが次第に薄れてくる。自らの長期的見通しを通そうとすると、組織の上層部に昇る必要が出てきて、管理的な仕事をしなければならなくなる。管理的な仕事にミクロの合理性を持つ人は良いが、そうでなければ不要な仕事をしなければ自らの長期的見通しに従って行動することができなくなってしまう。

組織に求められる管理能力とそれが生み出す無駄

そして組織は、管理的な仕事を合理的にこなす人材を必要とするので、長期的見通しの是非よりも管理能力の高さが出世につながることになる。管理能力の高さは必ずしも長期的見通しとは一致せず、つまり見通しなき管理が蔓延るようになる可能性が出てくる。それはつまり、無駄を無駄とも思わない管理職が無駄な仕事を合理的に部下に配分する、という悲劇的な状況が起こりうることになり、組織は大きくなればなるほどに無駄な仕事を大量生産するようになる。

組織的管理の意味

こうして考えると、最適な組織規模というのは、それぞれの人の長期的見通しがフラットに共有され、そしてそれぞれの長期的見通しに基づいて日々の短期的合理性の追求が許されるようなサイズになるのではないだろうか。そして、果たしてそこに管理職的な指導者のような存在は必要となるのだろうか?
管理職というものがもし仮に必要なのだとしたら、一体何が求められるのか。上層部の長期的見通しに従って仕事を分配するだけならば、特にその必要性は感じられない。部下が求めるのは、自らのミクロの合理性につながる仕事がないのならば、どんなケイパビリティを獲得できるか、ということであり、そのケイパビリティが社内外の人間関係の調整というような、職場が変わればほとんど役立たないような”管理的”な仕事であれば、それはほとんど無駄な仕事であり、それが合理的だと教育するような組織であれば、継続的に無駄を生み出す非効率極まりないものとなる。

組織の提供しうるもの

組織は今、何らかのケイパビリティを分配しうるものであり続けているのだろうか?かつては組織内で蓄積された技術を習得するというのは大きなモチベーションの源泉となったのかもしれないが、これだけ情報が溢れるようになった時代、閉鎖的な組織で閉じられた関係性の中でケイパビリティを積み上げるということは、合理的に個々の望むケイパビリティを蓄積してゆく方法だと言えるのだろうか。あるいはケイパビリティの積み上げ以外に何らかのミクロの合理性を達成させうる手法を持っているのであろうか。
そうしたものが準備できずに、ただ出世のための競争を、利益、そして管理能力によって目標管理し、ひたすら行わせるという組織であれば、個々人のミクロの合理性の感覚がどんどん失われ、長期的見通しなきままの利益追求、管理による部下の奴隷化という、何の意味もない無駄を日々積み上げてゆく全く意味のない存在となってゆくのではないだろうか。
仮に今必要とされる組織があるのならば、それはミクロの合理性の積み上げの結果としての協力関係を形成できるものであると考えられ、それはトップダウン型のリーダーシップが求められているように見える現代的な組織の要請とは、実は全く異なったものなのではないだろうか。

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