懐疑すること 理性・功利主義・信仰

懐疑とはいったいなんなのか。

帝政ローマ時代のギリシャの哲学者セクストスによると、真実についてのアプローチは三つあるという。真実を発見したと主張した人々、真実は把握できないと表明した人々、そしてさらに探究を続ける人々で、その最後の人々が懐疑派だという。この見解は、プラトンのアカデメイア派の、相手方の主張を仮定的に前提とした上でそこから結論を導き出す対人論法という方法でストア派に反駁しようとしたところ、不可知論に陥ってしまったことから辿り着いたもののようだ。セクストスの懐疑論はピュロン主義として体系立てられた。これは、多様なものの見方を反映した非常に有意義な体系であると言えるが、ギリシャ語で書かれていたために近世になるまで広く知られることはなかったという。

一方でその間にアカデメイア派の懐疑論を受けて、キリスト教徒のアウグスティヌスは自己認識の確実性から懐疑論を導き出した。すなわち、確実であろうとするから疑うのだ、という理屈である。この考えがデカルトに受け継がれ、一旦感覚的事物を疑い、ピュロン主義によるさまざまな懐疑の洗礼を受けても、考えている私自身は確実なものであるとして、哲学の第一原理とした。それに対して、ヒュームは経験的事実を疑うことをせずに、そこで設定されている因果関係と帰納によるその正当化を疑った。そしてヒュームは、原因の必然性についての説明はすべて誤っているのだとし、客観的真理の代わりに主観的尤もらしさという規則を採用することで真理に近づこうとしたのだ。

私の感覚では、現実認識が自分の考えとは違ったものとなったときに、現実と自分とのどちらが正しいのかを突き止めるのに、一旦現実の側に身を置いてみてそこから自分を眺めてみる、という状態が懐疑なのではないか、と感じている。これはしばしば自分自身を見失ってしまうので、どうもあまりお勧めできる方法ではない、と最近感じているのだが、それでもやっぱり見つかる何かが自分自身である、ということではないだろうか。そこに残ってものが現実と自分とを峻別する基準であると言え、それが自分にとっての理性だと言えるのかもしれない。

カント的理性とは、誰もが生来備えている人としての感覚(超越論的?)、という感じ(?)であろうが、誰もが備えているかどうかなどは決してわからないし、それは必ずどこかで押し付けにつながる。むしろ理性とは自分を自分であると区別する、自分としての基準であると考えた方が良いのではないだろうか。そこにデカルトとカントの大きな境目があるのかもしれない。つまり、カント的理性は懐疑がしきれていない可能性があり、そこで二律背反という非論理性に逃げているのだと言える。

一方で、デカルトは主観的確実さということに焦点を当てたが故に、座標軸的な思考法は手に入れたのではあろうが、多面的な、多次元的な世界については放棄せざるを得なくなったと言えるのかもしれない。もっとも、それはデカルト自身の考えというよりもその解釈論の問題であり、デカルト自身はカトリックでありながら、プロテスタント国のスウェーデン女王クリスティーナ(デカルトの死後にカトリックに改宗した)の家庭教師を務めるという非常に柔軟な考え方をした人物であり、十分に多元的世界を考慮に入れての懐疑を行っていたと言えるだろう。その点で、座標軸的な考えでデカルトの全てが表現されていると考えるのは大きな間違いなのだろう。

ヒュームの経験主義的懐疑論は、客観的真理を認めないので、数学的応用はできないが、懐疑の深さという点ではおそらくかなりのところまで行っており、それが故に白人至上主義的な人種論に至らざるを得なくなったと言えるのかもしれない。懐疑をするには何らかの基準が必要で、デカルトのように確固とした自分を見つけられないと、どこかで歪みを生じるのかもしれない。


いずれにしても、懐疑によって自分の基準を定められないと、誰か、典型的には神が正しいといっているから正しい、という基準が一番楽なものとなり、それは他力本願の”信仰”になるのだと言えそうだ。神が正しいかどうかの証明はしようがないが、とりあえずそれを基準としておけば難しいことを考えずに済む、ということがあるからだ。それは、神の解釈を握るものが価値基準を定めることになり、そこに権力が集まることになる。絶対神を信仰する宗教に帰依する人が、他者にも絶対神に対する信仰を求めがちになるのは、価値基準が同じでないとベースが成り立たない、ということがあるのだろう。その考えが、究極的には相対性理論に至っていると言えるのではないだろうか。

それに対して、自分に有利になれば良い、典型的には儲かれば良い、という考え方が功利主義であると言え、価値基準は徹頭徹尾自分の利害関係、ということになる。それは計算式とするには非常にわかりやすいが、別に人の価値基準が儲かるか儲からないか、自分に有利になるか否かということであるとは言い切れないわけであり、特に懐疑に基づけば、絶対的価値基準が自己利益であるというのは激しく疑うべき対象になるだろう。懐疑の結果として功利主義の結論が出てそれが前提として社会が動くことになれば、当然他者との間でも利害衝突が起き、ゼロサムゲーム的になる。この考えに基づくのが、利益至上主義であり、権力思考であり、そしてまた現世利益の、宗教と呼べるのかどうかもわからない教えであると言えるのだろう。

功利主義に理性が認められるのか否か、というのは、懐疑の観点からは一義的には決められない。それが理性である、という人にとっては理性なのだろう、としか言えないが、少なくともピュロン主義的な懐疑からは社会全体の幸福なるものが定義できるとは想像し難い。それは少なくともカント的な理性を前提にしないと成り立たないのではないだろうか。

そして、カント的理性は二律背反の特性を持っているので、原理的に数学では処理ができない。にもかかわらず、功利主義は数学的処理を行うので、二律背反についての皺寄せが人間に行き、それに苦しめられ続けることになる。原理的に二律背反である、と言っているものを人に考えさせるシステムという地獄を作り出すのが、カント的理性に基づく功利主義の世界なのだと言って良いのだろう。

懐疑が必要とされるのは、理性や共感という人間として非常に大事な言葉が、定義、という言葉も変だが、まあ社会を”科学的”に動かすために必要不可欠な前提とするときに、それをカント的理性のように大雑把な形で定めると、その上の科学的部分が精緻化すればするほど、その理性や共感とはなんなのか、ということが個人の上に重くのしかかるようになるからだと言える。それを押し付けられれば、そこに自分の考えとの違いが生まれ、現実との齟齬が生じて懐疑せざるを得なくなる。主体的懐疑ならまだしも、システム的なそれは、齟齬に対する反応である人の一挙手一投足を論って、そこに論理的に生成した懐疑の嵐を送り込み、人に二律背反の世界でどちらかのポジションを取るよう強制することで、人を論理機構の部品としようとする。それはひいては政治の権威主義化やそれに連動して個人の社会システム内での部品化、そしてそれに伴って考えを放棄した無気力化といったことにつながっているのではないか。

それを避けるためには、システムに対する懐疑、特にピュロン主義的なそれによって、人の側から多様な側面からそのシステムを検討し、そしてその中に理性や共感といった言葉を多義的に定義することで、多様な前提が確保できることになるのだろう。システムに対する解釈は人によって異なるわけで、それをカント的実践理性の感覚で、システム側の都合を各個人に一律に当てはめるのではなく、各個人の理性に基づいた解釈を包括できるような緩やかなシステムとしなければならないのだろう。

人というのは、共感する生き物であるが故に、逆説的に共感の中からどこに自分の視点を見出すのか、ということを明示化する必要があるのではないだろうか。自分はなぜ共感するのか、ということを冷静に観察する目が、懐疑によって備わるものであり、それによって初めて他者に対して自分の付加価値を提供することができるのではないだろうか。理性が個別にではなく「物自体」から触発されることによって作用するのだ、という、自我を放棄するような考えに捉われることなく、それぞれの自己判断が尊重される世界になって初めて自由が得られるのだろう。その自己判断こそ、懐疑によって磨かれる物だと言えそうだ。

信仰や功利主義に取り込まれることなく、個々人が自己を確立できる世界が望ましく、そのために懐疑が必要なのだろうが、できることならば懐疑などなくとも個々人が自由に自己判断に従って生きることができればもっと望ましいのではないかとも感じる。果たして懐疑の末にたどり着いた現代という世界は人に幸せをもたらしたのだろうか。特に、人に懐疑の罰をもれなく与えた哲学なる学問は果たして人の幸せに何らかの貢献をしたのだろうか。哲学自体が、「物自体」などというものに逃げることなく、二律背反を前提とした哲学体系がまともだと本当に考えうるのか、ということを徹底的に懐疑する必要があるのではないか、という気がする。(哲学と言ってもさまざまなので、これに関してはカントに対するものとなります。)

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