河野談話の悪質性

後十日もすると、かの悪質な河野談話が発表されてから29年目を迎える。そして、その日は、そこから派生したとも解釈できる慰安婦支援の財団への10億円支出を主導した当時の岸田外務大臣が総理を務めて初めての河野談話総括の機会であるともいえる。

果たして、財団へ支出した10億円というのが、河野談話の指摘するように国の強制制を認めたが故に、その謝罪の意味を込めて出したものなのか。そんな解釈を許すのは、岸田総理の総理大臣としての国際感覚、法治国家の解釈の姿勢、そして何よりも総理、あるいは政治家としての国家観、そしてそれ以前に人としての人間観が問われるのではないだろうか。だからこそ、総理自身によるこの重要な問題についての見解、特に”軍の関与の下に”とは一体何を意味するのか、ということについての説明が求められるのではないだろうか。

さて、その河野談話の問題点は、一言で言えば、証拠のないことに関して、権力に大きな影響を持つ官房長官(正確には不信任決議によって解散し選挙に敗れた自民党政権の宮澤改造内閣なので、すでに総辞職と下野が決まっており、その意味で自称であるともいえる)という立場で、国の責任を一方的に認めたということだといえる。これは、中身もさることながら、その形式においてあまりに多くの問題を含んでいる。証拠不十分による冤罪、権力の公私の狭間をついての私的濫用、私的見解の公的発言化、公的立場による反論のできない他者への一方的断罪、さらに選挙に敗れた政権与党だった自民党総裁の禅譲を受けての私的権力行使という、権力の巨大なループホールを作り出したこと、などなど列挙にいとまがないほどに問題だらけの発言であった。

この発言の社会に与えた影響は、これもまた破壊的といえるほどに大きい。まず、その発言のメインテーマである従軍慰安婦という問題自体、戦争と性という、まさに命に直結する人間にとって非常に微妙なテーマであり、そのことに関してもっともらしく国の責任だ、などというさもそれらしい発言でまとめることで、何かよくわからない問題が起きれば国のせいにすれば良い、という根源的な無責任体質に正当性を与えたことになる。実際これは政治的には非常に大きなカードとなった。というのも、人間の関係性などというのは煮詰めれば暴力か性かということに集約されるわけであり、政治的問題をそこに反映させるように社会動向を導いてゆけば、どんな問題でも慰安婦問題でガス抜きすれば何とかなるという、非常に恐ろしい支配の道具を作り出すことになったからだ。これこそが岸田総理に基金に対する解釈、説明をきちんと聞きたい理由である。つまり、基金が政治的ガス抜きのために作られたものであるかどうか、ということであり、それは、河野談話についての立場を明らかにすることで見えてくるだろう。

ついで、国に対して証拠もなく嘘であると言わざるを得ない事象について一方的に断罪したことの影響だ。世の中には科学的には解明しきれない、証拠はないが、経験的にそうでありそうだ、と言ったことは山ほどあり、それは神秘である一方で、科学のフロンティアをさらに拡張させるものであるともいえる。それを国の責任である、ということにしたというのは、もちろん一方で国に対する冤罪ではあるのだが、もう一方で、そう言った複雑・神秘的なものに対する国の責任を認め、つまりそれを管理する権利を与えたことにもなる。つまり、国の名においてそう言ったものを管理することを認めることとなり、それは特に微妙な人間関係について国の際限のない介入を認めることになったのだといえる。これが、実定法的な考えと相まって、国の責任において権利を細かく定めてゆく、逆に言えば定められたことしか権利ではないという、国の個人に対する介入を無制限に広めてゆくような異常極まりない状況を作り出しているといえる。この発言に前後して話題になり始めた外国人地方参政権の問題、近年話題の同性婚や選択的夫婦別姓(氏)の問題というのも、河野談話によって国の個人への介入が正当化され、前者はまさに河野談話と政治的に連動して、そして特に後の二つは、それによって結婚に至らない理由を国の力で解決するのだ、という不遜な権力主義の拡大によって顕在化しているのではないか。結婚しない理由で明確化できることなど、もはや姓や性の問題くらいしか特定できなくなり、だからそれが本当に問題解決になるのか、新たな問題を引き起こすことはないのか、ということを考えることもできず、”国の責任”の一言で爆進しているのではないだろうか。このような権力主義の拡大によって政治が行われてゆくというのは決して望ましいことではない。それは、権力闘争が直接人の心に干渉するようになり、社会全体が権力志向になってゆき、権力闘争を日常化させ、万人の万人に対する闘争を恒常化させることにつながる。

特に、強制性について証拠もないのに国の関与などと言い出したら、公職にあるものの発言を全て強制性根拠にできるようになるのはもちろんのこと、示唆やゼスチャー、さらには忖度も含めて強制性根拠となりかねない。それは、発言については注意深くさせるという効果もあるが、おそらく萎縮させる効果の方が大きい。それ以外の事項に関しては、全く証拠がないわけであり、それに強制性の可能性を見出すということは、それを意図的に使えば権力者の権力の範囲が際限なく広がってゆくし、その意を受けたものの力もどんどん広がり、権力者に直接接することのできるものの力が大きくなる側近政治が肥大化してゆく。それは、権力を民主政治からどんどん遠ざけてゆくことになる。

それをさらに広げて考えれば、民主主義の形骸化ということにつながる。社会動向を慰安婦問題で管理しようとすると、相互作用の中でさまざまな喩えや示唆で男女間の関係性が定義されることになる。それはトークンによって消費され、政治的文脈を踏まえる限りにおいては、関係性においてSとMの役割分担で政治的解決を行うことができると解釈することで暴力や性的行為の正当性(?)が政治的に定まるようになっているといえるのかもしれない。その中で、結婚というのが一つの基準となって、そこからの解釈でその関係性を政治的処理する、ということになり、だから無理にでも結婚させる必要が出てきて上記の同性婚や選択的夫婦別姓(氏)の問題がまさに政治的に浮上しているのだといえる。こうして、人生を豊かにするはずの結婚というものが、人間関係定義の基礎として義務化され、そしてそれを政治的に用いるよう調教され、さらにはそれが契約の基本となり、まさに「結婚は人生の墓場」という言葉が社会的に実装されるということになっているのではないか。そんな政治的思惑に勘づいているから、結婚はなかなか増えず、そして少子化が進む、ということになっているのではないのか。

社会レベルでの民主主義の形骸化と並行して、国政レベルでもその劣化は止まるところを知らない。すでに述べた通り、河野談話は、選挙に敗れて下野した自民党政権の宮澤改造内閣末期に出されている。それが、ある程度の国際的波及力問題のあるテーマについて国の責任を問う形でなされたことにより、まさにその発言自体の担当としての責任の所在が明らかではないままに、政権交代、そして自民党の与党復帰後もずっと、与野党問わずに外交・内政の両面を縛り続けることになっている。これは、権力の中枢にポッカリと穴が空いている状態であると言えそうだ。つまり、この発言は、一体個人のものなのか、内閣としてのものなのか、内閣官房長官としての職務によるものなのか、または総辞職後の自民党の国会議員としてのものなのか、あるいはすでに禅譲を受けていた自民党総裁としてのものなのか、そして自民党という政党はそれを認めたことになるのか。このような重要なテーマについて、個人としての責任の所在が明確であるのにも関わらず、その立場、承認者など、社会的責任の位置付けが巧妙なまでに隠されており、そしてそれによってその発言者自身は政治的に非常に大きな力を握り、その後20年以上も政界の中心に居座ってその社会的大停滞の時代に、ある時は表舞台で、またある時は黒幕として実権を握り続け、引退後も息のかかった議員を多数抱えて隠然たる勢力を保ち続けている。

そしてまた、自民党下野後に野党連立政権が引き継ぎ、外交にその河野談話が色濃く反映されたことで、外交の継続性から非常に大きな負の遺産をもたらした。連立政権側から言えば自民党政権下の官房長官談話であり、自分達には直接の責任はない状態でそこから得られる政治的利益を極大化するように動いたために、現在に至るまでの日韓関係のこじれが悪化したのだと言えそう。このこじれは、政治的には誰も責任がない状態で、事実ではない責任が日本という国にのしかかったことによって生じている。ここまでこじれてしまったものは、個別の政治家の努力や流れの中の外交政策の中で解決できるような物ではなさそうにも見える。まず、その原因を作り出した本人がその個人としての責任を認め、その内容を撤回することから始めるしかないのではないだろうか。

すでに述べたとおり、この問題は、発言それ自体よりも、それが行われたタイミングや背景を含めた政治的意味が非常に重要なのであり、その意味を消し去るためには本人がそれを撤回するしかないのではないかという気がする。例えば、息子が代わりに謝罪・撤回する、などというやり方では、生まれた権力のブラックホールをそのまま引き継ぐことになるだけで、それはおそらく政治に恒久的な打撃を与え、どこかの段階で独裁性に繋がってゆくリスクを抱えるのではないかと危惧する。それは、政権交代による見直しによっても同じことであり、そんなことになったら、そのブラックホールをめぐる争いが権力の正当性をめぐる争いとなり、権力は神秘主義、権威主義の色彩をどんどん強め、息苦しい社会へ一歩一歩進んでゆくことになるだろう。

だから、本人が撤回するにしても、例えば来年の30年目にセレモニー的に行う、というような花道的解決では、外交的にはともかくとして、この発言の作り出した日本(に限るのかもわからないほどの人類共通の行動に対する重大な侵害であると感じるが)社会に与えた影響はとてもではないがなくすことはできない。それほどまでに日本社会は深い分断と、得体の知れない国への責任転嫁の雰囲気、そしてその政治的報酬としての予算ぶん取りゲームに覆われてしまっているのではないか。おりしも、最終的解決を打ち出した時に外務大臣だった岸田氏が総理となった今こそ、被告の立場に立たされた国の代表と、禅譲を受けた党総裁が公的立場を利用して私的権力の拡大を目論んだ状態で、もしかしたら被告としての国の立場からは意に沿わなくとも一担当大臣として内閣の方針に従って職務を遂行せざるを得なかった事柄について、自らその意味を明確にし、もはや議員ではないであろうが一党員であろう本人に私的発言として処理をさせるのか、あるいは党員または総裁の不適切な発言であったとして党として撤回するのか、はたまた内閣(総 *1月9日訂正)官房長官の立場であったとして現在の官房長官談話として撤回するのか、いずれかの形でその(非公式)公式談話と最終的解決との間の関係を明確にしなければ、民主主義法治国家としての国際的立場も、その仕組によって成り立っているとの信頼の下で動いているはずの日本社会も立ち行かなくなってしまうだろう。この問題の深刻さを総理がどの程度理解しているのか、しかと注目する必要がありそう。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。