広島文脈の結晶・宏池会の源流6

これまでの流れは、


話は戻って、昭和33戊戌年(1958年)9月11日、藤山愛一郎外相とジョン・フォスター・ダレス米国務長官の日米外相会談が行われ、アメリカが(旧)日米安全保障条約の改定に同意し、10月4日安保条約改定のための第一回日米会談が開催された。一方、この動きの中で、ソ連も9月30日 にノヴァヤゼムリャで核実験を実施した。


そんな中、10月8日に政府が警察官職務執行法(警職法)改正案を国会に提出した。これには、労働組合、とりわけ総評の動きが大きく関わっている。

旬報社 (デジタルライブラリー)総評十年史 第五編

7月に総評の第10回定期大会が開かれた。この大会には、前年の大会後に加盟が承認された全国税関労働組合、そしてこの大会の最初に承認された全国一般合同労働組合協議会、人事院職員組合、経済企画庁職員労働組合が新たに参加したという。前年の第一次岸改造内閣で税関を管轄する大蔵大臣は一万田尚登、この大会の時の第二次岸内閣で全国一般合同労働組合協議会の活動範囲である中小企業を管轄していた通産大臣は高碕達之助、人事院の管轄は大臣レベルなら総理ということになるだろうが、この内閣ではたまたま無任所大臣として池田勇人が入閣しているので、それが担当していた可能性がある。そして経済企画庁は、三木武夫、その前任は河野一郎であった。この大会以降に活発化する労働運動には、これらの政治家が関わっていた可能性が非常に高いことになる。

総評は8月には原水爆禁止世界大会に動員をかけ、その間、河野一郎がグラマンの再検討を求めた3日後にスイスから導入したエリコンという誘導弾の陸揚げについて一悶着が起きた。エリコンというのは、創業者がナチスに武器を売って会社を大きくしたとして議論の的になっているスイスの企業である。その誘導弾ということで、国防会議に参加していた河野が戦前戦中の戦争協力行為から逃れるツテとして象徴的に選んだのかもしれない。河野の地元神奈川の横浜港湾労連の動きということで、グラマン再検討に絡んだ政治的な動きだった可能性もある。なお、横浜自体は外務大臣藤山愛一郎の選挙区であった。結局24日には防衛庁と合意に至り、陸揚げがなされることとなった。その藤山が日米外相会談に臨んだ4日後の9月15日に日教組による全国一斉正午授業打ち切りが行われ、9月30日の総評第3回拡大幹事会で10月28日の第三次統一行動が定められていた。

その第3回拡大幹事会に先立って29日に第30臨時国会が招集されていた。9月11日の議院運営委員会で討議されたこの臨時国会の招集は、40日の会期にもかかわらず法案が目白押しで、又人事案件も多かったという。にもかかわらず、会期途中の10月8日に突然警職法改正案が提出されたのだ。この改正案は元々9月25日に国家公安委員会で臨時国会への提出を内定し、10月7日の持ち回り閣議で了承され、翌日提出となったという。ただ、議事録を見ても、13日になってそういう話があったということが出てくるだけで、提出したとされる8日の議院運営委員会の議事録は見つけられなかった。野党側にその話が伝わったのは、第一回日米会談が開催された10月4日とされるが、7日の地方行政委員会の議事で新聞報道で聞いたということが出ており、国対がうまく機能していなかった、あるいは意図的に党に知らせなかったようにも見える。この時の野党社会党の国対委員長は河野密であった。

9日から総評側の動きが活発化し、警職法改正案反対運動が大きなうねりとなってゆく。一方で、日教組の問題意識は勤務評定を中心とした文部大臣灘尾弘吉の文教政策に対してであって、それがすでに沸騰している時に会期の限られた臨時国会でさらに警職法改正案を提出するというのは明らかに議論を停滞させるためだと考えられ、それは与野党暗黙の合意の下に行われたのではないかと疑われる。そして、人事院の職員組合が総評に参加したという状況を考えると、それには、目白押しだったという人事案が関わっているのかもしれない。

ではなぜそのタイミングで改正案の提出がなされたのか、ということであるが、すでに書いた通り、ローマ教皇ピウス12世がこの時期10月6日から体調を崩し、9日に亡くなったことが影響していそうだ。有力候補の二人が枢機卿になっていなかったということで、後継選びが混沌とすることは目に見えていた。ソ連の脅威が増す中で、アメリカサイドがそれに併せて防衛問題で日本に対して揺さぶりをかけてきた可能性もある。そして、その尖兵となっていたのが日ソ共同宣言でフルシチョフとの間に北方領土問題を埋め込んだ河野一郎であるといえそう。つまり、ローマ教皇選びで大きな焦点となるのが、無神論的な立場をとるフルシチョフのソ連に代表される共産主義における宗教のあり方であり、北方領土問題によってソ連の脅威を印象付けることでそのソ連に対する牽制としての日本の防衛問題という位置付けを固めることができる、という立場で、自民党総務会長の河野一郎が党内の議論を主導したのではないか、ということだ。警職法改正と防衛問題の関わりについてはおいおい述べる。

結局警職法改正案は臨時国会では審議未了で、その後すぐに始まった第31回通常国会には提出されなかった。そしてその年内最後12月23日の本会議で灘尾弘吉文部大臣への不信任決議案が提出され、それ自体は否決されたものの、12月27日に池田勇人国務大臣、三木武夫経済企画庁長官、灘尾弘吉文部大臣の三閣僚が辞任することになった。池田と三木は上に書いた通り新たに総評に参加した労働組合の監督大臣であった可能性があり、もう一人の監督大臣高碕達之助は三木の後の科学技術庁長官および原子力委員長になった。これをみると、原子力問題が国会で議論とならないように労働運動を煽り立て、そのエネルギーを使って防衛問題を動かそうとしたようにも見える。そしてそれは日米安全保障条約の改定を基調として動いていたと考えられそうだ。

では、そのアメリカを中心にこの背景にある国際情勢を追ってみる。11月3日にキューバで大統領選挙が行われ、アメリカの支援を受けていたバティスタ独裁政権が倒れた。この大統領選挙が行われた背景など詳しい情報が見当たらないので、細かいところはよくわからないが、私の勝手な推測では、民主化運動が高まって選挙に応じざるを得なかったバティスタ政権が下野したところ、アメリカのキューバ大使であるアール・スミスというのがバティスタ復権を目指してさまざまな画策をしたのではないかと疑っている。結局明けて1959年1月1日にバティスタはドミニカへ脱出し、軍事政権が樹立され、その後カストロの政権ができる、ということになっているが、情報が錯綜していて正確なところはなかなか読み解けない。キューバは元々スペインからの独立も、アメリカのイエローペーパーが煽り立てた米西戦争によって成し遂げられたものであり、その独立の実情というのは、その後もアメリカメディアによる情報工作によってかなり歪められてずっと伝えられてきたと考えられる。だから、アメリカの言いなりにはならないカストロ政権が誕生するということがアメリカにとっては大いなる脅威であったのではないか。さらには、それはローマ・カトリックにとっても脅威であったことは既に述べた。そんなことがあって、ローマ教皇が亡くなったその年末にかけてその波紋が日本の政界にも及んできたのだと言えよう。そして、1月1日の脱出というのもでき過ぎているので、年が明けたら動き出すというスケジュールが定まっていた中で、年末に三閣僚が辞任したのだと言えそうだ。キューバの情勢如何では、それが日本の労働運動に飛び火することも十分考えられ、アメリカの関与を考えると、下手をすれば、メディア出身で労働運動を煽っていた節もある河野一郎がバティスタのようになって、日本がキューバ化する恐れすらもあったと言えよう。そして、それを念頭に警職法改正案の提出タイミングが定められた可能性もある。その意味で、キューバの政権交代が比較的平穏に行われたことに感謝すべきなのかもしれない。実は、イギリスのチャーチルもキューバの独立戦争を取材しており、それがのちに政治家となって、戦争には勝ったとはいえ、事実上アメリカの尖兵と成り下がって大英帝国を没落に導いている。それはともかく、そんな国際的緊張感の中でのこの臨時国会と通常国会であったと言える。

さて、不信任案を出された灘尾文相と、ずっと文脈を追ってきた池田勇人はいいとしても、もう一人、三木武夫経済企画庁・科学技術庁長官とは一体どういう人物で、なぜここで辞任しないといけなかったのか。三木武夫は徳島県出身で明治大学に在学していた。明治大学は、フランス法学系の司法省法学校出身者によって作られた明治法律学校を前身とし、明治法律学校開学時には、旧鳥取藩主池田輝知と旧島原藩主松平忠和の経済的援助を受け、西園寺公望が講師を務めてもいた。三木は、大学在学中に欧米を1年程度かけて回り、シベリア鉄道から満州を経由して帰国している。さらにそのあと1932年5月にアメリカに渡り、留学している。南カリフォルニア大学とアメリカン大学に通い、アメリカン大学で学位を取ったとされるが、おそらく1933−34年くらいにかけて南カリフォルニア大学、その後36年までアメリカン大学に関わっていたのではないかと思われる。

その時期の様子を見てみると、三木が留学に出発した昭和7壬申年(1932年)というのが、2月9日に元蔵相の井上準之助が、3月5日には三井の団琢磨が暗殺されるという血盟団事件が起き、そして三木がアメリカに出発したという5月には五・一五事件が起きるという非常に荒れた時期であり、その間3月1日に満州国が建国されている。三木は渡米してから講演などで資金を稼いだとされるが、外国人がアメリカに渡って即講演で金を稼ぐことができるという状況は考えにくい。三木はその前に満州に渡っており、当時満州では中東路事件によってソ連が中東鉄道全線を支配したことを知っていた。しかも、それによって関東軍が満鉄の鉄道警備駐屯権の根拠を失ったことも知っていただろう。そんな状態で、その翌年に柳条湖事件が起き、そして満州事変から満州国建国に至ったのだった。その背景についてはさまざまな推測ができるが、とにかく三木はこういう情勢について解説を加えながら、満州国が独立したことで、そこに日本とは独立した市場ができる、ということで資金集めをしたのではないか。

一方でちょうどこのころ南カリフォルニア大学の第5代学長だったクラインシュミットという人物が世界中から交換留学生を集めるという計画を立てており、それに関わって34年に徳川家当主家達が訪米してクラインシュミットから名誉法学博士号を得ている。三木はこの家達訪米の下ならしで、この交換留学生の計画についての資金集めを表看板にしていた可能性もありそうだ。ここにはまた鎌倉時代にまで遡る長い歴史的文脈がありそうだが、話が大きくずれるのでここでは触れない。

そしてその34年、アメリカン大学にSchool of Public Affairsができている。これは、ルーズベルト大統領の就任に伴い、ニューディール政策を実行する人材を育てるために作られたともされ、34年3月3日にロックフェラー財団から$4000の寄附を得て創設されたものだった。三木の集めた資金はそちらにも使われたかも知れず、それでこのアメリカン大学の学位を得るということになったのではないだろうか。

とにかくこういう背景で、満州と少なからず関わっていたことが考えられる三木武夫は、アメリカでこの両方の大学に関わることでルーズベルトなどと関係を作り、その後に日本に戻って政治家になったのだといえる。

その後の政治家としての三木を追っていると大変なことになるのでここでは触れないが、とにかくこの三閣僚辞任の時には科学技術庁長官でもあり、それは原子力委員長も兼ねていたことを意味する。そしてこの時期に原子力に関するイギリスとの条約批准などもなされ、それによって原子力委員長が高碕達之助に変わった後の翌年3月3日の東海村の発電所建設が始まることになる。これは、後から述べる原子力についての鳩山、岸、正力、河野らからの責任リレーのようなこともあって、その年末に辞めることになったのだと言えそう。

もう一つ、三木は徳島出身でのちに後藤田正晴と阿波戦争と呼ばれる激戦を繰り広げたとされるが、参議院選挙で争われたこの選挙戦は実際には後藤田が次の衆議院選挙のための名前を売るためのものであったと考えられ、そう考えると、三木と後藤田は同志であったのだと言えそう。そして、警職法改正案が提出された時、後藤田は警視庁長官官房で警察力強化のために働いていたという。後藤田は内務省出身で、内務省の時の上司に灘尾がいたという。灘尾の文教政策と後藤田の警察力強化は一体であったといえ、それは後藤田が関わった警察予備隊の保安隊への改組をへてできた自衛隊による防衛力整備の考えにつながるものであったといえる。三木はこの三閣僚辞任に名を連ねることで防衛利権への食い込みを図ったのだとも言えそう。

では、この三閣僚辞任の政局的意味を考えてみる。まず、自由民主党というのは、自衛隊が吉田自由党政権下で創設された直後に起こった吉田おろしの動きの中で新たに結党された鳩山民主党が、吉田自由党から禅譲を受けて政権を握り、その後自由党の首班であった緒方竹虎亡き後適当なリーダーを欠いた自由党とその鳩山民主党が合同することで始まった。つまり、鳩山民主党系は、自衛隊を創設した吉田自由党系に反対するという形式で成立し、吉田はその鳩山民主党に禅譲を行った上で、その後の合同の時には吉田は佐藤と共にその結党には参加せず、それ以外の自由党全てが鳩山の下へ移り、塊として鳩山の政策を支持したことになった。その政策の中心は原子力政策と対ソ外交であったといえる。吉田と佐藤は鳩山退任後に自民党に参加し、岸政権の下で河野が実動舞台となっての防衛政策とその河野と正力の茶番による原子力政策は大きく進んだが、その強引な政策が行き詰まったところで、今度は三閣僚辞任でもう一人の吉田の子飼いであった池田が閣外に出て主流から外れ、そこで原子力発電所の建設が動き出すことになる。三木と河野は自衛隊が創設された時には自由党には参加しておらず、だから防衛問題をカードとして弄んでも自分の身は傷まないという立場を得ていた。河野はその地位を使って防衛問題に積極的に介入した一方で、三木は後ろに回ってその落ち穂拾いをする、という役割分担で、この自民党結党に関わる二大テーマである防衛問題と原子力問題のエンジンとなっていったのだといえる。結局佐藤栄作が大蔵大臣として閣内に残りながら、元から閣外の河野に加えて池田と三木も原発建設開始の時期には政策決定から外れることになり、後を高碕達之助に託してここでもまた心置きなく批判側に回ることができる立場を手に入れたのだといえる。そしてその防衛・原子力エンジンを乗せて走った車体が、岸政権によって固まった自民党主流派であり、特に、岸の後を引き継いだ池田を支えた宏池会というのがその主体となっていったのだといえる。

だいたいこの辺りで宏池会の源流は押さえられたのでは、と勝手に考えるので、このシリーズは一旦ここで切りとする。

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