二重の相対的実存

年明け以来、というか去年の年末くらいから歴史を追ってゆくことにちょっと行き詰まりを感じて、ずっと雑記を書き続けるようなことになっていた。それも少しネタ切れになってきたな、と思って、ちょっと書いたものを振り返ってみると、どうも今年になってからの雑記は質が落ちている物が散見される。特に、哲学とか数学とかに取り憑かれるような感じになってからは、正直人様に見せられるようなものではなく、よくもまあこんなものを恥ずかしげもなく、という感じだ。

これは何が起きたのか、ということを考えてみると、自分で考えて書く、ということに無理にこだわったために、自分とは何か、というものをどんどん突き詰めざるを得なくなり、「純粋経験」的なものを追い求めるが故に、結果として極度に一般化された人間像や社会像を作り出す基本となっている哲学や数学と対峙せざるを得なくなり、そしてそれに取り込まれてなるものか、と無駄な抵抗を繰り広げたが故の醜態なのであろう。

その中で気づいたいくつかのことがある。まず、数学についての考えでは、人間の生き方を線形的に数式化できるように定義する、というあり方にどうにも馴染めない、ということがわかった。一人一人が合理的に線形で描くことのできるような行動原理を持っているわけがないのに、それに加えて社会がその線形合理性を持った人間にとって合理的に動くよう設計されるという、ミクロ的にもマクロ的にも受け入れがたい数学の現実応用にはとてもではないがついてゆけず、それ故に、一体何と戦っているのかわからないほどに数学に徹底抗戦していた、ということのようだ。

ついで、その数学的世界に取り込まれざるを得ない仕組みについて、西洋哲学的な”エポケー”すなわちカテゴライズを人に応用する、ということがあるのだろうという感じを受けた。もともと”エポケー”は、概念について一旦保留して考えてみる、という懐疑的思考を定型化するためのプロセスなのではないか、と理解しているが、それが、カテゴリーを定め、そこにものはもちろん、人をも当てはめることで理解を単純化する、というように変わってきているのではないか、と感じる。そして、それによって、自然科学的な手法を社会科学的に応用するようになっているのだと言えそう。それがどのように行われているかと言えば、哲学者の引用を行い、引用だけによってその哲学者と対峙させて、それで折れた哲学者のカテゴリーに”エポケー”して、そのトークンによって、例えばニーチェならば意志の力から権力志向、カントならば国際的関心、と言った方向に、その本人が言った言動を前提にしてガチガチの線形構造の中に押し込め、その線形構造の集合体として、功利主義的計算に基づいて計算によって社会を動かすのではないか。一方でその中で抽出された新たな知見は量子物理学的に展開され、新たな素粒子の発見などと言った物理学的成果に昇華され、そしてそれがまたトークン化して現実社会に展開される、と言った具合になっているのではないか。こうして、人は精緻に理論構築された哲学・数学・物理的構造の中に無理矢理に押し込められ、社会合理性のための部品として社会の中に埋め込まれる。

まあ、こんな理解も、私の妄想にすぎないわけで、それが万人に当てはまるものなのか、ということは確認のしようもないのだが、私は別にそれを確かめたいとも思わないし、ただ自分はそんな中ではとてもではないが生きて行けそうもないと感じるだけである。では、自分にとってどのような社会のあり方ならば納得できそうなのか、ということであるが、とりあえず、現状の私の見えている世界では、実存主義というものが大きくのしかかっていると感じている。実存主義というのもなかなかにむずかしい考え方で、なかなかキチッと取り組もう、という感じにはならないのだが、大体の理解として、そこに至るまでの経緯はすっ飛ばして、キルケゴール的な個の実存を重視したものと、そのキルケゴールが反発したと言われるヘーゲル的な社会的、というか一般的な実存を重視したものがあるのかな、という感じを受けている。個人的にはキルケゴールに近そうだとは思っているのだが、この日本語版Wikipediaの内容が英語版と全然違っていて、そこを真剣に読み解こうという気にどうしてもならないのでそこで止まっているのだが、とにかくそんな状況で実存主義が私の前に立ちはだかっている。

で、その実存、あるやなしや、と言われれば、なしと言ってしまえば話はそこまでなので、あるとして話をする必要があるのだろう。では、あるとして、それはどのようにしてあるのか、すなわち、個は絶対的に存在するのか、そしてそれは一般法則に則るようなあり方で存在するのか。そこで冒頭の書くということに戻るのだが、絶対的な実存に依拠して書くということをしてみた結果、実存は極めて一般化された抽象的なものにどんどん引き寄せられるということになっていった。どんなに反発して違いを出そうとしても、それはすぐに一般化され、自分から引き剥がされてゆく感じを勝手に受けて、どんどん追い込まれてゆくのだ。究極的には、自分を全て吐き出し、そして”エポケー”されて一般化された部品となって社会に吸収されるというのが、おそらくキルケゴールが感じたとされるヘーゲル的なものへの反発なのではないか、と感じている。

このような不幸な状態はいかに解決できるのか。情報処理単位として人を見ると、基本的にインプットがなければアウトプットもなく、そしてそのインプットの所有権によって依存・従属関係を明らかにする、というのが現状の社会契約的な社会構造のあり方なのと言える。だから、既存の所有権体系の中での自らの位置付けを決めなければ、構造の中に入り込めない、ということになる。それは、遡ればどこに所有権の源泉があるのか、という権威の問題となるのであろうが、そんな話になると歴史の森に入り込まねばならなくなってしまうので、それは措く。問題は、空気の所有権であり、その空気の所有権問題がどこから発生するのか、ということなのだろう。本来的には空気はただ存在するもので、そこに所有権も何もない。しかし、権威が幅を効かせる社会では、その権威を纏うことが非常に重要になる。そこであの手この手で権威の源泉である空気をなんとか自分のものにしようとするのだが、では一体その空気はどこから発生するのか。

それを考えるのに1対1の関係性を考えてみる。自己を規定するのに、一体どのようなやり方が取られるのか。この関係性はまさに人間関係の数だけあり、それは決して一般化できるようなものではないが、空気をなくすためのモデルとしてどのようなものが考えられるか、という例を示すだけのもので、それが絶対であるとか、そこから新たな空気が生まれるようなことは私の本意では全くないので、批判的に観察されることを望んでいるが、まずは自己の実存を前提とするところから始めたい。これは一般的な実存ではなく、個別の実存であり、まさに本人の自己規定による実存であると考えている。それが他者と接するとき、他者の実存を、正確にというのは不可能であり、なんらかの予断を持って認識し、その認識に基づいて自己の実存を相対化し、他者の推定実存の中での自分の相対的実存を自己規定する。そしてその認識ギャップをお互いに埋めてゆくことで価値が生じ、それが空気の源泉となる。というのは、相対認識ギャップの他に、社会的に観察されていた第三者からの認識とのギャップがあり、それはその観察の線形的方向性から外れることを意味し、そのギャップは観察者のものなのか被観察者のものなのか、さらに被観察者というの自分なのか他者なのかという複雑な所有権の問題が発生してそこに空気が発生する余地があるからだ。

単純に1対1の関係性ならば、相対的他者に対する自己相対化という二重の相対的実存の認識を合わせる過程において自己の実存が拡張され、まさしくそれが価値の源泉となる。一方でその依存性、両者が独立的に実存を保持しているのか、あるいはどちらかがどちらかを支配し、もう一方が依存するという状況そしてその程度によってさまざまな関係性が生じる。そこがフラットな関係性、つまり、相互の目的合理的実存をある程度の寛容さを持って認め合うというものがあれば、付随的実存の拡張によってお互い価値が生じるが、基本的な目的合理性の部分で支配・従属、あるいは管理・依存の関係性にあれば、その関係性はうまくいきそうもない。

そこにさらに、観察者による眼差しが入ってくると状況が複雑化するので、とりあえずはここまでとする。

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