対話のあり方

昨日の続きのような感じで、数学的に対話は記述可能なのか考えていた。

そもそも対話とは一体何なのか、ということで、皆が自分の仕事に追われている状態で起きる対話というのは、結局仕事の順序の決め方のようなことになっているのではないか、と感じる。仕事全体が流れのような中で行われている時、流れの順序に合わせないと仕事がうまく進まない、ということになり、自分の仕事の優先順位を上げるということが対話(?)の大きな目的になっているのではないか。

それは、相対性の世界特有のことだとも言えそう。つまり、相対性の世界では、常に他者との関係性の中で動いているので、自律的行動原理で動くとその関係性に乱れが生じ、序列が変わってくるので、何としても序列を上げることで自分のペースを確保しようとする。本来的には、各自が自分のペースで自分の仕事をしていれば良いのに、関係性に取り込まれることで、全体の序列に合わせて自分の行動を決めないといけなくなってしまうのだと考えられる。自分のペースで行動したほうが満足度が高いのは明らかであり、その時点で相対性、関係性の世界はいかに個々人にとって非効率かがわかる。

これを数学的に考えてみると、全体の流れという直線があり、さまざまな人の行動がその直線に向けて収斂してゆく、というイメージなのかと感じる。つまり、個々人の行動は直線とはなり得ないことがわかり、その意味でも流れを共有する集団というのは、個の合理性を犠牲にした上で成り立っていることが直観的に理解できそう。そこで、そもそも、数学的な座標軸上の直線というものは加減乗除が可能なのだろうか。例えば、

y=3x+6
y=5x+2

という式があった時に、これを足し合わせるというのは一体何を意味するのか。もちろん方程式を解いて解を求めるのは簡単であるが、これを足して2y=8x+8、つまりy=4x+4としてその真ん中を通る線を求めることは直線の足し算なのだろうか。その時に、両辺を2で割る、というのは、座標上において一体何の意味を持つのだろうか。むしろ直観的には、足し合わせたらy=8x+8となりそうな感じでもあるが、その時には一つのyは一体どこへ行ってしまうのか。直線は数字ではないので加減乗除はできないということなのだろうか。その時に、2直線の関係性、つまり対話というのは数学的に定義可能なのであろうか。それができないとしたら、数学的世界は対話なき沈黙の世界で、ひたすら自分の直線を走り続けるということなのだろうか。

個人的には、そもそも人の行動を直線で描くこと自体に抵抗があるが、仮にそうだとしても、対話とはあ直線で進めなくなった時に人の知恵を借りるとか、分担して仕事をするとかそういうイメージで、その際に対話が発生するのではないか、と考えているが、それは果たして数学的に記述可能なのだろうか。どこで進めなくなるか、ということ自体、個々人によって違うだろうから、その時点ですでに数学的には記述できなさそうに感じる。対話を定義し得ない数学によって関係性の世界を記述する、という矛盾に満ちた表現は、数学的には果たして成立するのだろうか。

そもそも数学には根本的な欠陥がある。それは、数学は定義によって初めて動き出すのにもかかわらず、直線というのはその定義の始点がわからず、ただ無限の長さで存在する、ということになっているからだ。一体その直線はいかにして定義可能なのか。要するに、数学は神がいなければ動かない、という非常に宗教的な学問であると言えるのだ。その数学によって物理、果ては社会までもを記述しようとするので、物理世界も社会も宗教的になってゆくのだと言える。だから、要するに、社会はもちろんのこと、物理世界ですらも、数学で記述することは根本的に不可能なのだと言える。自然、特に生物について数学で記述し切ることはまず不可能であろうと言えるからだ。それは再現性のない命というものにとって当然のことであり、それを数学的に記述可能だとすることがどれだけ不遜なことか。

数学というのは、固定的な解が求められるという点で、すでに対話の要素が非常に低い。対話をしようがしまいが解が決まっているのに、なぜ対話をする必要があるのか。この辺りから対話のあり方を考える必要があるのだろう。

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