嘘と責任転嫁と、その弊害を悪化させる社会の論理化

どうにも認識が乱れて集中できず、何も手につかない状態になってしまっている。これが何に起因するのか、ということだが、そんな因果を考え続けるところに一番の原因があるのかもしれない。いずれにしても、原因を見極めるのは問題に対する科学的アプローチとしては基本的な出発点にあたることであり、それを避けることはできない。

原因追究の姿勢

そこでまず、原因追求についての姿勢を考えてみたい。まず、原因を他者に求めるか自分に求めるかによって、責任追求か自省か、ということになりそう。責任追及については、ある客観的基準を提示し、それに基づいて問題発生の因果関係をできうる限り論理的に追い求め、原因とみられる事項を特定し、それが発生した責任を突き止める、というプロセスになりそう。社会における責任追及では、客観的基準は法律となり、ある事件が起きたら、法律に基づいてその因果関係の特定をし、責任の所在を明らかにする、というあり方だと言えそうだ。それが個人となると、客観的基準が定められないので、個々人の価値基準に基づいて因果の解明、責任追及となるが、個人的価値基準に基づくということで、それは常に責任転嫁の可能性を孕まざるを得ない。そこで、それが責任転嫁とならないように、自省によってその基準における自己の立ち位置を確かめる必要がありそう。

懐疑のあり方

自省は懐疑によってなされるのではないかと私は考えており、そのために懐疑の手法について考える必要が出てくる。懐疑は、自分を疑いの目で見つめ、その上で否定しきれないものが自我であると考える手法だと言えるが、個人的にはこれだけではまだ不十分ではないかと感じる。それは、否定しきれないものが自分の絶対的意志に基づくもので、自分で管理できる否定しきれないものに到達する主観的懐疑と、否定しきれないのだが、自分では管理できない外部的要因に依存したものに到達する客観的懐疑とに分けられるのでは、ということだ。主観的懐疑はその人の価値基準であると言えそうで、その行動を定めるベースとなるものとなりそう。一方、客観的懐疑は、自分ではないと思いながらも否定しきれないほどに自分に密着してくるものであり、だから、懐疑の上で客観的懐疑に到達したら、それがなぜ自分に密着してくるのかということを検討することによって、どこまでが責任転嫁となりうるのかを特定することができるようになりそう。

嘘の効果

さて、因果を考えた上で、原因に到達したとして、その原因から責任追求されることを逃れるために、嘘によって、実際とは違う認識に誘導し、それによって責任追求の手が別に逸れることがある。そのようにして責任を追及された側としては、いったい何の理由があって自分が責任追及されなければならないのかがわからない、という状況となり、それが積もり積もって認識が乱れるほどの脳内混乱に至っているのではないかと考えているところ。

そこで嘘についてだが、嘘か本当か、ということ自体主観的なことであり、解釈は様々に分かれようが、そこに客観的な基準を導入するとすれば、事実に基づいているか、ということになり、そしてそれが証拠が重視される理由なのだと言える。ただし、そこには、証拠の信用性などの様々な派生的問題が付随し、それがまた嘘か真かの問題を複雑にする。

いずれにしても、嘘は他者の認識に混乱をもたらす。一つの認識の混乱は、脳内の他の情報整理にも少なからず影響し、そしてその認識に関わる他者との関係性にも混乱をもたらす。それが積もり積もって何らかの摩擦、そしてそこから対立や衝突、あるいは不測の事態や事故に発展することもあるだろう。このような展開を考えると、何か事故が発生した時に因果追求をしてゆくと、自分に何らかの過失がない限りにおいては、嘘に突き当たる可能性が非常に高くなる。

責任転嫁

そして、嘘をついた側は、そこに到達されないように、その嘘から嘘をついた本人に至る何処かに責任転嫁の認識混乱源をおく可能性が高くなり、そしてその混乱源を隠すための更なる嘘と責任転嫁。こうした嘘と責任転嫁の無限ループプロセスは、社会を嘘まみれにして、どの情報が信用できるのかについて疑心暗鬼が満ちる殺伐とした世界をもたらす。ホッブスの万人の万人に対する闘争イメージはこのような状態を観察した結果かもしれず、そして、経済学におけるゲーム理論もまた嘘によって不完全化した情報によって対人関係における主要なコミュニケーションが駆け引きとなることを想定してその状態が理論化されたものだとも言えそう。

嘘と責任転嫁のループ

嘘は、最初から悪意というわけではなく、会話の性質上そうならざるを得ないということもある。特に未来のことに関しては、嘘か真かなどということは事前には定まらないわけで、嘘から出た真ということが新しい世界を開いてゆくこともままある。だから、基本的には嘘だと言ってあまり目くじらを立てると、世の中はどんどんギスギスすることになる。しかしながら、社会が合理的になり、論理で動くようになると、嘘が混じるとその嘘によって論理性から間違った方向へ一気に進んでしまうことになる。そしてその結果として上記のような経路を辿って事故などに結びつく可能性が高くなり、そしてその因果解明プロセスが強化されるに従って、嘘を責任転嫁する手法も巧妙化する。こうして、社会の論理性が高まるにつれて、嘘に対する許容度が下がり、その結果として責任転嫁が溢れるようになり、嘘と責任転嫁の高速増殖プロセスが回り出す。

嘘の使われ方

このプロセスは、未来についての未実現事項を推進するためにエンジンとして用いられることもある。つまり、未実現のことを実現するために、嘘にならない範囲でリスクを取るために、すでに溢れている世の嘘を例にしたり、引用したりしてその上に未実現事項を載せ、論理を構築することで、その未実現事項がうまく進むよう論理的支柱を立てる、ということだ。プロジェクトを論理化することによってスピードアップが図られ、言葉にしなくても身振り手振り、そして顔の表情などによって情報伝達がなされるようになり、その進行がスムーズになるという効果がありそう。これはそれなりに有用なように見えるが、その論理からのずれをどこかで処理する必要が出てきて、それは例示や引用された嘘の強調ということで解消される。

歴史改変のメカニズム

この場合、解消されると言っても、それは嘘が増幅されるということを意味し、その正当化のために責任転嫁がなされるか、もしくはその嘘の前提となる部分についての真相究明、そして究極的には歴史を遡っての過去の改変などによって辻褄を合わせることになる。例えば、現在進行中のプロジェクトについて、関わる本人ではなく、その先祖の名前でその話の進み方を調整するというようなことを行い、そこに大きな違いが生じた時には、その先祖の話を変えることによって辻褄を合わせる、と言った具合だ。日本において時代ものが一定の支持を集めているのは、そのような背景によるものだと言える。これは、別に時代劇でもなく、アニメや漫画のような架空の話ならば、最初から架空だからどれだけ変わっていっても現実に影響を及ぼすことはないのだが、架空の話は線形に未来に向けて進むという意味でメインのストーリーの過ちを修正する効果はそれほど大きくない。時代物においては、過去を改変すると、それは歴史解釈に直結し、歴史解釈の意図を持って意識的改変がなされると、現実のプロジェクト進行が、それ自体は良いことをしていても、結果として歴史解釈の改変に加担する、と言ったことがありうる。

権力による嘘の弊害

このような意味において、過去についての嘘というのは社会に対する影響が非常に大きい。とりわけ権力者がそれを行うということは、統治についての責任や、政策決定やその実現についての検証を難しくするという意味において、社会に対して致命的な打撃を与える。それは、社会の認識全体に乱れを生じさせ、それが脳内認識に混乱をもたらす大きな原因となっていると考えられる。そのような要素は、影響の大きなものから一つづつ取り除いてゆく必要があるだろう。

社会の論理化からの脱却

また、このような状況に至るのを防ぐためにも、社会の論理化をできるだけやわらげる必要がある。それには、まずは反射的な論理実行をやめ、一旦考えて納得してから実行する、という癖をつける必要があるだろう。そして、コンピュータ化が進むことで、世の中が論理化、デジタル化してゆく中、社会全体が論理的反応、二者択一を求めるようになっているが、このような要求に対しては断固として拒否すべきだろう。二者択一には、その選択の中に他の様々な問題のほんの部分的にでもかけらが入り込むことで、その選択を繰り返すことによって、思いもよらぬ方向に進まざるを得なくなる可能性があるので、留意が必要となる。そして論理については、社会にとっての合理性ではなく、自分にとっての合理性と十分に照らし合わせて採否を決め、どのようにしたらその論理から抜け出せるのかの道筋も確保しておく必要がありそう。

デジタル政策と嘘と責任転嫁

とにかく、権力が嘘と責任転嫁を正当化しながらデジタル化を進めるというのは非常に危険。嘘と責任転嫁の正当化は、嘘と真の間の曖昧な部分の判断基準を権力に委ねることになり、一方的に定められたその基準に従ってデジタル化が進められたら、おかしいと思っても、おかしいと声を上げることすら難しくなるかもしれない。基本的には、デジタル情報は嘘が混じればその精度が大きく落ちるわけで、それを正当化したまま進められるデジタル政策がどれほど信用できるものなのかは大いに疑問が残ると言わざるを得ない。

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