ダミー構造のでき方

相互協力、相互扶助は、ダミー構造と深い関係にあり、それが主客の認識の問題を発生させ、関係性を非常に難しいものとする。

対話に付随する問題

他者との間で対話を行い、その中で自分の意志を伝えようとすると、まず、その意志が完全に相手に伝わるわけではないという伝達の問題が発生し、ついで伝わった部分について相手が完全に理解するわけではないという理解の問題、さらにはその理解に基づいた解釈が発信者の意志をどれだけ反映しているかの解釈の問題、解釈に基づく対応がどれだけ発信者の意志に沿ったものであるかという対応の問題が発生する。

ダミー構造の形成

この問題はかなり複雑なプロセスであり、情報に対して反射で処理する、といったような手法でうまく動くようなものではない。しかしながら、情報の流れが速くなると、どうしても反射で対応する必要が出てきて、それによってこのプロセスが大きく簡略化される。それによって、その反射は発信者の意志に類似しながらもどこかずれたものとなる。1対1の関係でもこのようにズレたものが、多くの人との対話によると、それぞれの人の受けた印象や解釈によってズレたものの集合体として、発信者の周辺の現象として現れることになる。これが、発信者の構造と類似しながらも少しズレたダミー構造となる。

構造の精緻化

皮肉なことに、理解が深まっていればいるほどに、そのダミー構造は精緻なものとなり、自分のものと見分けがつかなくなる。しかしながら、その大前提の部分で違いがあれば、それは本能的に受け入れられないものとなり、逆に大きな圧力となってのしかかってくる。それは、反射ではなく、もっと積極的な理解、解釈、対応になればなるほど大きな圧力となり、双方の相互不信も増幅することになってしまう。本来的には、発信者の譲れない前提を尊重した上で対応をすることで、ダミー構造にそこまで深刻な拒否感が現れるものではないのだが、ここで難しいのは、現象は社会によって構成されるということで、対応が社会を経由して発信者に戻ってくる間に誤解や悪意が入り込み、前提をわざわざ毀損するような対応が、例えば大きな情報発信源によって行われれば、その現象は全く受け入れ難いものとなる。社会というのはそのような恐ろしい情報の歪曲が比較的容易くできてしまい、それは人々の認識を思った以上に大きく制約するのだということは留意しておいた方が良いのかもしれない。

ダミー構造の起源

そうなってくると、相手を助けるためにやったのか、自分のためにやったのか、という、主客の問題に展開することになる。それは、関係性利益の源泉である認識重複部分の所有権のような問題となり、関係性を酷く毀損することになる。一旦そうなってしまうと、関係性の修復は非常に難しいものとなる。そこは、分業の利益の中心点であり、本来的にはダミー構造ではなく、相互理解による相互の構造化を行うべきところで、それがダミー構造とならざるを得なくなるのは、特にデジタル化によって、あえてそっくりだが前提が少しだけ違う構造をコピーして皆を走らせることで、競争によってその構造の社会実装を速めたいという指導者層の思惑があることになる。

権力の認識への介入

これは、私権に属する認識の世界に権力が介入し、それを管理しようとするという恐ろしい話で、それにまんまと乗せられると、トークン争奪の上競争を強いられるというとんでもないことに巻き込まれてしまうことになる。もちろん認識の世界に厳密な私権を定義するのは不可能に近く、そしてそこまでしないことで解釈の違いが生まれ、ネットワーク効果のようなものが発生する源泉となっていると言える。しかしながら、そこに権力が介入して、その相互理解プロセスを競争に乗せ、納得に至る前にどんどん対応を迫り、果てには反射で対応しないといけなくなるというのは、対話による相互理解プロセスを完全に破壊し、人の複雑な相互作用、そして納得のプロセスを簡略化、デジタル化して、人が人であるべき理由をどんどん喪失させてゆく。

ネットワークの論理限界

デジタル的な思考でネットワークを利用しようとすると、必ずネットワークの論理限界に到達する。それは上記の相互作用における曖昧部分でデータのずれが生じるために、デジタル化した情報では論理的に目的合理性を達成できない、という問題だ。その論理限界を超す、ということを目的化するために相互作用を簡略化させるという本末転倒な対応をすることが、マクロ的には社会全体に強い競争圧力をかけ、そしてサイバー空間の治安も大きく悪化させることになる。

人類奴隷化計画?

静態的な論理性を動態下で実現するために人に競争をさせて近似的にその状況に近づけようとするという、天に唾するというか、デジタルという名の脳筋運動会というか、なんとも表現の仕様のないシュールな光景を笑って見ていることができるのは今のうちだろうか。そのうち、誰もがこの”デジタル”ネットワークから逃れられなくなり、常に脳内で情報の追いかけっこを強いられ、そして悪意の混じったダミー構造に囚われて、自分の考えどころか、自分自身が一体誰なのか、なんなのかすらもわからなくなってしまうのではないだろうか。人類がまともな意識を持っているうちになんとかしなければ、人類というものがデジタルの奴隷の何か別のものに変質してしまうのではないだろうか。

競争 vs 相互理解

このようなダミー構造の生成プロセスを制度化することは、社会にコストを撒き散らすだけで、全く生産的ではない。ダミー構造による競争システムではなく、相互理解に基づく協力の方が遥かに効率的なのはいうまでもないだろう。

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