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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(4)

広島の歴史を読み解く

寛容と対話の地域ということで広島の可能性を探っているが、そのような寛容と対話を積み重ねてこないといけなかった理由はどこにあるのか、よそ者だからこそ言える大胆な歴史への疑問提示によってその手がかりを探ってみたい。

広島城の現状

では、その出発点として、前回すでに疑問を呈した広島城について考えてみたい。まず、広島城の立地を見て一番不自然だと思うのは、太田川という大河のデルタ地域という、街を作るには最も相応しくなく、しかも中洲の上という不便極まりなく洪水に対してもあまりに脆弱でほとんど何も戦略上のメリットが見出せないところにあるということだ。近代になってから師団が置かれたという状況においては、軍と民間をはっきりと区分けして、軍の管轄域に民間人が入りにくくする、という意味で、陸地から孤絶したデルタ地域に軍の拠点を置く、というのはそれなりに合理性を持つが、少なくとも毛利輝元の時代にはまだ兵農分離も進んでいなかったと考えられ、その点でも城を栄えている街と分離して設置するということにほとんど意義を見出すことはできない。

港としての可能性

可能性として考えられるのは、当時の海岸線がどこだったか、ということにもよるが、もう少し海沿いならば港としての機能が発揮できたかもしれない。しかしながら、少なくとも今残っている遺構から港のような機能を意識したものだったとは考えにくい。そして、それを築城したのが例えば小早川隆景のような水軍とゆかりのある人物ならばともかく、毛利氏というずっと山奥の郡山城を拠点としていた一族の輝元が、突然広島に出てきて三角州の中州に城を築こうと考える感覚は私には全く理解の範囲を超えている。

小早川からの視点

なお、これは実地に見たわけでもないので何とも言えないが、毛利氏関連博物館等施設連携事業のパンフレットによれば、沼田小早川家に養子に入り、そこから竹原小早川家に移った元就の三男隆景は、本家の沼田小早川家を乗っ取った上で、沼田川中流域にあった高山城に加え、その対岸に新高山城を築き、更には沼田川河口域の大島小島を繋いだ埋立地に厳島合戦のすぐ後である永禄10(1557)年に三原城を築いたとされる。小早川氏が元々水軍に関わる家だったとしたら、その本家の沼田小早川家が沼田川中流域の高山城を本拠としていたということが疑わしく感じられる。沼田荘というのは平家物語でも取り上げられた係争の地であり、それが実際どこなのか、ということを特定するということが平家物語の解釈上重要だった可能性もある。そこで、実際には関わりが薄かったいわゆる沼田小早川と、沿岸部を拠点とする竹原小早川というのを同族だとして無理やり統合した、というのが小早川隆景なる人物のやったことではないかとも疑われる。隆景という名からは毛利につながる字はどこにも出てこず、父とされる興景と大内義隆から字をとっているということで、実際に毛利元就の子であるかということも疑うべき理由があるかもしれない。元就自体が吉川氏からの妙玖を妻としており、実際には興景が吉川氏から妻を迎え、にもかかわらず側室から生まれたのが隆景で、その後継問題での吉川小早川両家を取り持つために毛利元就という人物が造形されたのかもしれない。

吉川からの視点

毛利元就の妻の実家で、のちに岩国藩を立てることになる吉川氏には、元就の次男元春が養子として入ったとされるが、こちらには毛利氏の通字である元の字がついている。隆景との違いを考えると、母系社会の男系による乗っ取りというのを名前にて表現しているとも考えられる。つまり、吉川氏から嫁を迎えたが、毛利の家を優先させて元の字をつけた元春と、もしかしたら同じく吉川氏から嫁を迎えたかもしれない小早川氏がその景の字をつけることで、吉川氏の経の通字が消えた、ということを示しているのかもしれない。吉川氏は元々駿河出身だともされ、そして『吾妻鏡』の写本を集め、取りまとめたことで知られている。つまり、鎌倉幕府が東国にあったのだ、という話を支える大きな力となっているのが吉川氏であるといえ、むしろ毛利氏は吉川氏のその話を守るために大藩として明治維新まで存在したということになっているのかもしれない。そういうことになると、関ヶ原の合戦で、吉川氏は本家である毛利家を守るために防長二カ国を譲り、岩国に所領を得て一応大名として存続した、ということになっているが、実際には『吾妻鏡』の話を守るために、いわば番犬として毛利を飼っていた、という話だとも言えそうだ。

作られる海と山との対立構図

これは、さらに言えば、厳島神社を奉ずる海の勢力と山の勢力との間の摩擦がこの時期に顕在化し、その解決を整理するために、厳島の戦いであったり、小早川隆景による海の勢力が実は吉川氏に当たるような山の勢力を乗っ取るという話であったり、ということが派生的に生まれてきた可能性もありそう。この、海と山の対立構図というのは、古代からずっと、おそらく渡来系の勢力が内地勢力の分断を図る時に、必要もないのにことさらにその対立を煽って摩擦を引き起こす、ということをやってきたのではないかと疑われ、それが顕著に現れたのが海と山が接近し、そして穏やかな海で豊富な海産物が、緩やかな山で豊かな陸の実りが得られ、宮島弥山という聖なる島、霊峰がある広島湾周辺であったということなのではないかと考えられる。
毛利氏のフィクションの原点は、その辺りにあるのではないかと考えられるが、その辺りはまた行きつ戻りつしながら考えることになるかもしれない。

厳島と大三島

とにかく、広島城の原型は、その小早川隆景の作った三原城である可能性があり、その話をのちになってからより厳島に近い広島に移し、それと同時に合戦も厳島であったのだ、ということにしたとも考えられる。もしそうだとすると、厳島の合戦とされているのは、同じく神社のある大三島で行われた合戦なのかもしれない。実際にその規模の戦いがあったかは別にしても、相対的に言えば大三島の方が大軍を展開する余地は大きそうだし、仮に村上水軍が関わっているのだとすれば、地理的にもはるかにその本拠に近いことになる。もっとも公式の資料から村上水軍が厳島の合戦に関わったという記録は見つけられないようで、その辺りには村上水軍の意地のようなものを感じる。海の勢力が主体的に厳島での合戦に関わったなどと記録に残るのは、いくら何でも恥ずかしい、ということがあるのではないだろうか。

三原城と広島城

また少し回り道をしてしまったが、公式の記録にしても、広島城ができたのは、本丸、二の丸、三の丸を構え、櫓を32、城門を14も備えたとされる、現在の広島城の規模よりもはるかに大規模な三原城が建設されてから30年以上も経ってからだとされる。もっとも三原城の整備は本格化したのが天正年間になってから、そして最終的には隆景が隠居して三原に戻った後に整備が終わったということなので、広島城の築城後ということになるのではあろうが、それにしても、記録上で広島城を凌駕するような規模の城がありながら、さらにそれとは別に九州征伐も済み、完成入城時には小田原合戦すらも済んでいる時に、五層の天守を持つような大規模城郭の建設、入城が認められるというのはどうにも理解しがたい。

江戸幕府的史観

それは、時期的には、秀吉による朝鮮出兵に先立つ頃であるが、朝鮮出兵に関しては、朝鮮側の記録から見ても、それが本当にあったかについては疑わしいところがある。何か戦乱があったとしたら、それは国内であった可能性もあり、それに関連して広島城に当たるような城が作られたのかもしれない。海を渡ってということになると、まさに隠居したのにも関わらず、水城といって良い三原城の守りを強化した小早川隆景の反乱のような動きがあり、そこを攻め立てたということなのかもしれない。隠居後の軍事活動としては、その後の関ヶ原の合戦における黒田如水の活躍が思い浮かぶが、それに先立って、その話のモデルとなるような動きが、九州帰りの小早川隆景によって起こっていたのかもしれない。小早川隆景は豊臣秀吉に先だって没しているが、同じ年には毛利氏の四本目の矢とも言われる宍戸隆家も没している。宍戸氏は毛利氏の郡山城の一つ先の盆地を拠点とした国人領主だとされており、もしかしたら吉川氏のモデルになるような存在なのかもしれない。ここでまた、少し捻れた話を同じ年に宍戸隆家と小早川隆景が没したことにして混乱させようとしているのかもしれない。いずれにしても、これらの混乱を受けて、おそらく山の勢力の一部が、その争いの震源地となった長州山口から九州北部にかけての地域を治めるために、山を降りてそちらに渡ったことから、その前後の、上に述べた黒田如水の話、あるいはそれに先立つ佐々成政や加藤清正の話につながるような九州の混乱がなんとか治まって行ったのかもしれない。それによってようやく和平が訪れたのを、関ヶ原の合戦によって毛利が長州に移った、との話で上書きしたのが、江戸幕府的な史観になってゆくのかもしれない。

広島藩の実態は?

そうなると、やはり広島城は江戸時代には存在しなかった可能性も十分に出てくるわけで、沼田(ぬた)郡と沼田(ぬまた)郡との混乱の話も含め、あるいは明治以降になってから、沼田川河口の三原と太田川河口の広島とを入れ替えるというような動きがあり、それに伴って第五師団の入営とともに広島に三原城を模した城を作ったという可能性も否定しきれないのではないだろうか。なお、広島県庁は、明治維新後に広島から尾道に移すという動きがあったとされる。そもそも明治初期の段階で県庁というものにそれだけの実体があったかということ自体非常に疑わしいと考えており、県が実質的な力を持ち出したのは今から135年前の市制町村制公布によって郡と県との区別をつけようとの動きが出始めてからではないかと思われるので、それ以前に県庁を移すということにどれだけの意味があったのかということはわからないが、とにかくその当時の広島は尾道と同様の規模で捉えられていたのだ、ということはいえそうだ。それは42万石の大藩の城下町としてはどうなのか、という印象を持たざるを得ない事実であり、やはり広島藩なるものの実態を再考する必要を感じることになる。

幕末の広島藩

広島藩は、明治維新の前に行われた長州征伐で先鋒のような立場になり、参戦各藩が広島に集結してそこから長州へ向かう前線基地となった。その詳細についてはまた後ほど検討することになると思うが、とにかくこの動きが明治維新への大きな布石となったのだと言える。その長州征伐に先立って、支藩が毛利元就の下の本拠郡山にある吉田に置かれ、内証分家だった浅野長厚がそこに入っている。その頃にはすでに下関事件も8・18の政変も終わっており、長州の動きは本格化していた。そこで長州征伐に際して、毛利家の出身地であるとされる郡山を押さえておく必要が出てきたということになるのだろう。実際、幕末には長州藩士が藩祖の元就や隆元を神格化してその故郷である吉田を頻繁に訪れていたという。それは、広島の浅野家にとっては当然の如く脅威であったと思われ、それを抑えるために支藩を入れたのだと考えられそう。郡山の住民の反応については詳しくは残っていないが、脅威を抑えるためであれば、ある程度の強圧的な態度があったことも考えられ、さらには第一次長州征伐には参戦しているので、その兵隊の徴収も行われた可能性もある。それは住民の心に少なからぬ波紋を投げかけたのではないだろうか。支藩自体は明治になって版籍奉還が行われると同時に廃止されているが、その後の廃藩置県で本藩が東京に出発しようとする時に、武一騒動という事件が起き、その出立を領民が阻止しようとしている。これは、支藩が吉田を去った時によほどひどいことが起きたか、あるいは長州征伐で広島の隣の廿日市の市街地が大きく焼けているが、その問題についての解決がなされていないか、なんにしても藩に対する不満の顕在化であると考えられる。私は、ことによると、吉田支藩ができたとされた時に初めて浅野家が広島入りしたという可能性もあるのではないか、と感じており、そうなると、吉田で浅野家があれこれ伝えた話というのが全く領民の納得を得ていなかった可能性もある。つまり、長州藩の墓参、ということ自体浅野家が作り出した虚構で、そもそも毛利の本拠が郡山であった、という話すら、領民にとっては初めて聞く話で、そんな話は受け入れられない、ということだった可能性もある。長州にとってみれば、厳島神社との関わり、そしてそれ以前の大内や尼子との関係がなければ毛利家の正当性というのは保ち難いわけであり、そのためにも元々広島にいたのだ、というアイデンティティの根源を確保する必要があったのだと言えそう。そこを、浅野家が藩主だとして仲介というべきか、情報さや抜きというべきか、そういうことをしたという可能性もあるのではないだろうか。

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