広島への原爆投下

今年も広島に原爆が投下された8月6日がやってきた。

これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 – 4か月以内に死亡したとされる。

Wikipedia 広島市への原子爆弾投下

ということで、悲劇であったことは間違いないが、多少なりとも冷静に事実関係は確認する必要もあるのでは、と考え、Wikipediaの記述から感じられることをメモしておきたい。

まず、ずっと感じていたことだが、朝8時15分の被曝ということで、随分と早いな、という気はする。テニアンから日本までは8時間程度(Wikipediaでは7時間程度とされている)なので、夜中に出たことになる。

8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎である。0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。
続いて1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。

Wikipedia 広島市への原子爆弾投下

ということで、日本時間で言えば0時45分にエノラ・ゲイは離陸しているようだ。翌日の愛知県豊川海軍工廠への空襲では8時間程度かかっているが、それよりも速いというのは爆弾が1発のみで機体重量が軽かったからということか。なお、燃料に関しても、エノラ・ゲイは7,000galで、翌日の豊川空襲のテニアン発のものより100gal少なかったようだ。爆弾を積んでいない機体の方が7,400galと燃料を多く積んでいたというのも解せないが、空中給油ということも視野に入れていたのだろうか。それでも満タンとはほど遠いわけで、全体として、なるべく機体を軽くしてスピードをあげようという感じは受ける。いずれにしても、史上初の原爆投下というのを夜中に離陸させるというのも随分冒険するな、という感じはする。

1945年当時、この方式の検証のための核実験は行われていない。核実験による検証を経たのは、プルトニウムを使った爆縮方式のものが1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴード近郊のアラモゴード爆撃試験場(現:ホワイトサンズ・ミサイル実験場内「トリニティ・サイト」)で行われたのみである。これは一般には、既にウラン235を使った核分裂試験が原子炉内で行われていた為に核爆発を伴う検証そのものが不要であったとされているが、実際はテストを行うことで高濃縮ウランが不足し、この方式の原子爆弾の戦線への投入に遅れが生じることを、アメリカ軍が心配したというのが真相のようである。

Wikipedia リトルボーイ

ということで、原料不足で実験すらできていないものを、いきなり夜中に離陸させ、7時間半もの飛行の末落とすというのはかなりの大冒険であり、そりゃとてもではないが大統領も承認印は押せないだろう、という気もする。もしそうだとすると、第二次世界大戦では満州事変での戦争責任が大きく問われたが、最高司令官の命令なき攻撃ということで、それ以上に重大な戦争犯罪であるとも言えそうだ。あるいは極東軍事法廷においては関東軍の独走で始まったとされる満州事変に焦点を当てることで、天皇の戦争責任を回避した、ということを交換条件にして大統領どころか独断専行で大量殺戮をおこなった軍の処分すらも逃れたということができるのかもしれない。いずれにしても、戦争終了間際のアメリカ軍の統制のなさは、日本軍以上であったということを明確に示すものではないかと言えそうだ。もし失敗して途中で墜落し、太平洋上で核爆発を起こしていたら、一体誰がどう責任を取るつもりだったのだろうか。その無責任な計画という時点で人類に対する罪などという言葉で捉え切れるものではないのではないだろうか。

8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600フィート(9,632メートル)。
8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。
8時15分17秒、原爆リトルボーイが自動投下された。副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2キロメートル)離れた地点の上空であると推察される。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の影響を避けるために進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を急降下させた。

Wikipedia 広島市への原子爆弾投下

投下の3分前には攻撃始点に到達し、自動操縦となり、その3分後に自動投下したという。この辺りの検証は後ほど。

爆弾を搭載したB-29が墜落したり、何かのミスで投下前に推進薬が点火したりするなど、万が一の場合に備え、爆撃機に兵器係として原爆の技術者を同乗させ、その者が投下の前に手作業で砲身内に推進薬(コルダイト火薬)を詰めこむという安全対策を取ったほどである。

Wikipedia リトルボーイ

リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした。

Wikipedia 広島市への原子爆弾投下

これもまた恐るべき記述がある。火薬の詰め込みは投下の前に手作業で行い、そしてその爆薬は、普通の爆弾のように着弾の衝撃で信管が外れて爆発するというようなものではなく、上空で自然爆発(?)するものだと読み取れる。あるいは着弾してから爆発するはずだったのが、思いもよらず先に暴発したということなのか。この詳細はさらに調べる必要があろうが、こんな運任せの爆発で史上初の原爆投下がなされたとすると、特攻隊以上の命懸けの仕事であり、よくもまあ別に落とさなくても勝てそうな戦争でそのような役割を引き受ける兵隊がいたものだ、と、その愛国心というか、まあ特攻隊を狂信的というのならば十分にそれ以上に狂信的な行動に、呆れてしまう。

原爆の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。これは爆発による高熱で発生した上昇気流によって巻き上げられた地上の粉塵が上空で拡散したため、特徴的なキノコ形になったものとされる。キノコ雲の到達高度は従来約8,000メートルだとされてきたが、米軍機が撮影した写真を基に測定したところ、実に2倍の約16,000メートルに達していたことが判明した。

Wikipedia 広島市への原子爆弾投下

周囲の条件にもよるが、広島・長崎級の核爆発では直径200メートルから300メートル程度であった。

Wikipedia きのこ雲

さて、原爆投下の象徴ともなっているきのこ雲であるが、高さが従来約8,000メートルだったものが、のちに2倍の約16,000メートルに変更されたという。これは写真をもとに、ということだが、爆弾投下後に、エノラ・ゲイは急降下しているはずで、そこから写した写真で眼下にキノコ雲が見えるということは、高さは明らかに9,000メートルよりは低いことになる。にもかかわらず16,000メートルに変更されたというのは、投下後43秒で爆発したとされる爆弾とその爆風の影響への整合性が取れなくなったからでは、と疑われる。写真で見る限り、きのこ雲の高さが8,000メートルであったとしても、その直径が200-300mというのはどうみても小さすぎる。7km離れたところから撮った写真を見ても、少なくとも傘の部分は地上の爆風と同じくらい、つまり2kmくらいの直径はありそうに感じる。慣性の法則から言って、投下した爆弾が飛行機よりも早く前に進んでゆくことは考えづらく、にもかかわらず投下直後に155度の旋回を行い、さらに急降下、という行動がとても正気の沙汰とは思えないのだが、とにかくそれが事実ならば間違いなく爆風に巻き込まれていたと考えて良いのではないだろうか。つまり、仮に飛行機から投下して上空で爆発したのならば、投下した飛行機もそれに巻き込まれていた可能性が非常に高いのでは、という気がするのだ。それを隠すための高さの変更か、あるいはそこまでリスクの高いことをするとは思えないので、むしろ地上に置いた爆弾が爆発したと考えた方が合理的なのではないかと感じる。上空にB-29がいたのはおそらくその通りなのだろうが、それは現場検証(?)のためで、実際の爆撃は行っていなかった可能性もあるのではないだろうか。

広島に投下された原爆のキノコ雲。エノラ・ゲイ乗員のジョージ・R・キャロン軍曹撮影。
Wikipedia 広島市への原子爆弾投下 より



1945年8月6日午前8時17分、原爆の炸裂から2分後のキノコ雲。
撮影場所は爆心地から7 km離れた旧安佐郡古市町(現:広島市安佐南区古市)の神田橋付近。
Wikipedia 広島市への原子爆弾投下 より

ちなみに、翌日の豊川海軍工廠への空襲では100機もの戦闘機の護衛がついたが、こちらには全く護衛がつかなかったというのも不審である。豊川へは戦闘機隊は硫黄島から出ているわけで、重要任務ならばテニアンからすると距離も半分なので連日護衛についてもおかしくないと思うのだが、それもされていない。よって、アメリカ軍にとってこの原爆投下はそれほどの重要任務ではなかったのではないか、という疑いも出てくる。

Wikipediaの記述頼りでまともな文献調査もしていないが、広島への原爆投下についても再検討の余地は十分にあるのではないかと感じた。

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