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【Lonely Wikipedia】チベット アジア関係会議

周恩来の外交で一気にニクソンショックまで走り抜けようと思ったのだが、スタートのチベット問題で大きく躓いてしまったので、一旦Lonely Wikipediaでまとめることにした。焦れば焦るほどドツボにハマるので、ゆっくりと。

基本資料は

チベットの歴史について大まかなところはすでにみたので、ここではチャムドの戦いに至る部分を見てみたい。


そこで、まずは、カム地方の独自性

カム(チベット語: ཁམས khams、中国語: 康、拼音: Kāng)は、チベットの東部地方。元、明代中国の地理史料では、アムドとともに「吐蕃」の「朶甘」と一括して呼ばれた。現在は中華人民共和国チベット自治区東部・青海省東南部・四川省西部・雲南省北西部に分割されている。東部のダルツェド(康定)と、西部のチャムドが中心的都市である。この地方の住民はチベット語で「カムパ(=「カムの人」の意)」と称する。外国文献の一部には、これを民族名と理解して「カムパ族」と表記する例が見られる。

カムパ族

康巴人
康巴人內部有著众多不同文化和不同自称或他称的族群,如“木雅”、“布巴”、“鱼通”、“却域”、“扎巴”、“普米”、“纳木日”、“鲁汝”等等,康巴人与卫藏地区的藏人在体质结构上具有明显差异,相比康巴人的身材高大,鼻梁长而高,酷爱斗狠,卫藏人的特点是短头型、面孔宽、身材较矮,性格温和。

カムパ人は、“木雅”、“布巴”、“鱼通”、“却域”、“扎巴”、“普米”、“纳木日”、“鲁汝”といった、大変多くの異なった文化と異なった自称・他称を持った族群からなっている。カムパ人との身体構造は、衛藏地域のチベット人とは明らかに異なり、衛藏人は、頭の形が短く、顔が広く、背が低く、穏やかな性格であるのに対し、カムパ人は、背が高く、鼻が長く高く、非常に好戦的であることが特徴であるという。

言葉はチベット語三大方言の一つカム・チベット語という。

In terms of mutual intelligibility, Khams could communicate at a basic level with the Ü-Tsang branch (including Lhasa Tibetan).
基本的な部分ではラサのチベット語と通じる。
These have relatively low mutual intelligibility, but are close enough that they are usually considered a single language.
地域内で、お互い通じにくいが、それでも一つの言語として扱われている。

とのこと。大きくはチベット文化圏に属するが、人種的にはかなり異なり、地域内でも文化はかなり多様だといえそう。人種的描写からは、カムパ人はかなりインド系の影響を受けていると考えるべきだろうか。

さて、では流れに移りたい。チベットに関して、戦中のことはほとんど情報がなく、40年にダライ・ラマ14世が即位したとされるくらい。

1935年、アムド地方(現在の青海省)の農家に生まれ、幼名をラモ・トンドゥプといった。4歳の時にダライ・ラマ14世として認定され、1940年に即位、1951年までチベットの君主の座に就いていたが、1959年にインドへ亡命して政治難民となり、インドのダラムサラに樹立された中央チベット行政府(現「チベット人民機構」、通称「チベット亡命政府」)においてチベットの国家元首を務めている。
毎年春先にノルブリンカに移り、半年後の冬の始まりとともにポタラ宮殿に戻る、という生活を20歳まで繰り返した。

ということなので、即位後、人民解放軍のチベット侵攻の時まではずっとラサにいたことになる。

もう一人の化身ラマとしてパンチェン・ラマがいる。

准备回藏时,受到英国大使和西藏噶厦的阻挠。
1937年12月1日,九世班禅喇嘛于青海省玉树结古寺的甲拉颇章宫圆寂。
在日喀则市扎什伦布寺,包含九世班禅喇嘛在内的,收藏从五世直至九世班禅喇嘛舍利肉身的灵塔殿都于文革期间被毁,文革后由十世班禅主持重建了五世直至九世班禅喇嘛舍利合葬灵塔。


チベットに帰ろうとしたら、イギリスとガシャに邪魔され、37年12月に青海省玉樹で亡くなったとのこと。これは、長征の時期とは少しずれているとはいえ、紅軍が南からカム経由で延安に向かおうとすれば、チャムドから玉樹を抜けるのだと考えられ、そうするとどこかではすれ違っていることになる。そこで殺された、という可能性はないだろうか。
そして、ちょうどその頃、玉樹よりもさらに延安方面に近い青海省のアムドでのちにダライ・ラマ14世となるラモ・ドンドゥプがチベットの捜索隊によって見つかっている。

なお、パンチェン・ラマ10世がタシルンポ寺を再建したとあるが、彼はほとんどチベットにはいなかったのではないかと考えられ、おそらくこれは違う。そして歴代パンチェン・ラマの座所であるタシルンポ寺には、パンチェン・ラマ9世によって奉納されたという世界最大の弥勒菩薩座像があるとのことだが、これはパンチェン・ラマによるものではないだろう。パンチェン・ラマは無量光仏(阿弥陀如来に相当)の化身とされるので、わざわざ弥勒菩薩の坐像は作らない。弥勒菩薩は、ダライ・ラマの座所であるデプン寺の「兜率宮殿」に関わる仏であり、それをわざわざパンチェン・ラマの座所に作るというのは、ダライ・ラマの嫌がらせとしか考えられない。

さて、そのチベットが戦後に姿を表すのは、47年3月23日から4月2日にかけて開催されたAsian Relations Conferenceとなる。

The Asian Relations Conference took place in New Delhi in March–April 1947. It was hosted by Prime Minister Jawaharlal Nehru, who then headed a provisional government that was preparing for India's Independence, which came on 15 August 1947. 

とされるが、この会議は、西はエジプト以外のアラブ諸国(アラブ連盟から1人のオブザーバー参加あり)を除き、トルコ、ソ連所属の中央アジア諸国、イラン以東の朝鮮、インドネシアまでの国々が参加しており、日本、満州、台湾からの参加はなかった。一方、パレスチナの代表としてユダヤ人コミュニティから10人が参加していた。ユダヤ人のパレスチナ移民を求めてユダヤ人による反英テロが過激化する中、この会議の直前2月7日にイギリスがパレスチナの委任統治を終了する意向を発表し、4月2日には国際連合に対してパレスチナ問題に関する勧告を正式に要請していた。このような大規模な会議を戦後すぐのアジアで開くのは大変なことであり、当然なんらかのスポンサーがいたと考えられる。

一方、この頃、中国では、アメリカのジョージ・マーシャルがひっかきまわしたことにより、第二次国共内戦が始まっており、そしてそのマーシャルはそれを尻目にさっさと帰国し、国務長官に収まっていた。

 西藏作为一个独立的国家派出两名代表团成员参加了这次会议。
因为中国代表团也参加了会议,所以印度方面感到挂这面旗有难处,特别是怕中国政府官员有意见,但在英国的压力下,会议秘书处还是挂上去了。
在英国官员的高压之下,印度方面还在主席台后墙上的亚洲地图中,把西藏划成另外一个国家。
尼赫鲁在宣布会议开幕时说
“ 欢迎密切和友好的遥远的亚洲国家和我们的邻国阿富汗、西藏、尼泊尔、不丹、缅甸和锡兰与我们合作。 ”
西藏代表团回答说:“我们是作为一个国家来参见亚洲关系会议的。
……自古以来,印度与西藏都保持着友好的关系。”
坐在主席团的中华民国代表郑彦棻还是走到尼赫鲁身边说:“西藏自古就是中国领土,不是一个国家,你们主办的会议,怎么把西藏弄成一个国家?贵国此举严重地损害了中国的主权和领土完整,如果贵国不立即改正,并向我方道歉,我国要退出此次会议。”
由于感到事态严重,当天中午,会议秘书处改画了地图,将西藏区域重新划到了中国版图内,并取走了“雪山狮子旗”。
至于与会的西藏代表团,秘书处也派人通知他们以后几天的会议,不要再参加。
西藏代表团提出抗议但是无效,他们一行人在新德里住了几天后就回到西藏。

ということで、チベットの旗と地図に関して一悶着があった。なお、中国からの代表は国民政府であったもよう。一方、チベットの代表はダライ・ラマと繋がりが深かった。

チベット政府に招待状を出したのは、インド高等文官であったヒュー・リチャードソン。

しかし、彼が一体どういう立場でその招待状を出したのかはよくわからない。時期的にはラサにおけるイギリス代表の時期だろうが、会議の主催がインドのネルーだとしたら、そこがどうつながるのかがわからない。しっかり話が通っていれば、最初に掲げたチベットの旗や地図を途中で外す、などということにはならないはず。リチャードソンが独断で行った可能性が高そう。ここは、ダライ・ラマ14世が当時本当にラサにいたのか、ということに関わる問題ではあるが、これだけではちょっとわからない。

ここにも何か関わりそうなことが書いてあるが、今はちょっとわからない。

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