自然言語と付加価値の源泉

数学的記述が閉じた世界での完全論理性を求めるのに対して、自然言語はどんなに完全を求めようとしても、常にそこからこぼれ落ちるものがある。というのは、自然言語は基本的にコミュニケーションツールであり、何か完全なものを伝えるというよりも、違いを確認するために、あるいはその違いを埋めるために用いられることが多くあるからだ。

ここで、付加価値というものについて考えてみる。付加価値とは、原価に対して何か追加の価値が付け加えられたものであると言える。そこで、原価というものをどのように定義するのか、と言えば、数学的計算が走り出す、その前提が定まったところだと言えそうだ。つまり、一旦数学的記述の世界に入ると、それが止まらない限りは付加価値の発生する要素はなく、その中で数学はそれまで生じた価値のシェアの取り合いのために使われるのだと言えそうだ。それは、数学が前提に基づいてなされる以上、数学によって生じる付加価値は定義できない、ということを意味する。付加価値は前提に相互利益の変更が加わったときに生じ、そして数学的計算はその前提の定義によって方向感が決まるので、力を持っているものは前提を自らに有利なように変えることで計算の行先自体を変えることができるようになる。だから、数学的世界では前提の奪い合いによって、その巨大な計算力を自らに有利なように用いるという誘惑が非常に強くなる。そしてそれが、仮に他者の前提を侵害しての変更であれば、付加価値的な前提変更ではなく、利益誘導的な前提変更となり、利益の奪い合いを激化させる。だから、数学的言語によっては付加価値を生み出すのは非常に難しくなる。

前提の変更は、自然言語に基づいてお互いの違いを埋め、それによって双方共に納得のいく前提に更新することで行われなければ付加価値とは言えない。数学的言語では、基本的な前提は定義や命題によってアプリオリに定まっているので、そこについての変更ということはできない。その定義や命題の解釈については自然言語で詰めなければどうにもならないのだ。定義の感覚があっていないのに数学的処理が一方的に進んでゆく、というようなことであれば、数学は問題を解決するどころか、ますます悪化させる方に作用すると言える。

この点において、付加価値を継続的に生み出すためには、数学的世界が動き続けている、ということ自体がそれを妨げていると言える。数学的世界が動いている間は前提変更はできないということになり、つまり、数学的世界の稼働自体が付加価値の発生を妨げていると言えるのだ。これは非常に悩ましいことで、数学的計算に委ねることと付加価値の発生ということを果たして論理的に両立できるものなのか、という問題に行き着く。前提が完全に中立で、その解釈が完全に個々人に委ねられる、という状態になれば良いのだろうが、そのためには、仮に問題を経済に絞るにしても、貨幣が常に平等に分配されているという想定をしないと難しそうだ。そうなると、経済的合理性という言葉に意味がなくなってしまい、経済学自体成り立たなくなってしまうという大きな矛盾に突き当たる。つまり、経済学に基づいた資本主義の仕組み自体、実は論理的に付加価値の発生を妨げている、ということになりそうだ。経済学に動学を持ち込む取り組みが難しいのは、ここのところに大きな原因がありそう。数学的に、数字が数学的理由なく増える理屈を説明できるわけがないのだ。

となると、数字が増える理由を人が生み出す、ということにしないと、数学的には発展とか、進歩とか言ったことを定義できないことになる。そこで、問題解決というものを付加価値の源泉と考え、個々人が自分の問題を自然言語によって定義し、その解決の度合いを数学的に示す、というような具合にすれば、理屈としては付加価値の定量化ができることになる。

実は、経済学は、この部分を金さえあればなんでもできる、というようにしてしまっているので、そもそもが進歩の可能性を命題の時点で切り捨ててしまっているといえるのだ。金さえあればなんでもできるのだったら、金を配れば経済学自体不必要になってしまうという、皮肉な数学的結論になる。つまり、経済学は自らの存在意義を生み出すために貨幣の欠乏状態をわざわざ生み出しているとすら考えることができそうだ。功利主義をベースにすることで、経済学はここまで退廃的になってしまうということは考える必要がありそうだ。

進歩というのは常になんらかの基準に対してなされるものであり、それは自ら基準を設定することのできない数学によっては、自己完結的には定義できない。なんらかの形で自然言語によってそれを定義することによってしか、数学によってそれを測ることはできないのだ。だから、数学的に進歩を考えようとするのならば、徹底的に自然言語を鍛える必要があるのだ、という論理的事実をまず踏まえる必要がある。自然言語を豊かにすることこそが付加価値の源泉であり、つまり、仮に定量化が必要なのだとしたら、認識をなるべく豊かに自然言語によって表現することこそが、進歩、発展をもたらすのだ、ということを考える必要がありそうだということ。

その上で、相互作用ということを考えるのならば、誰か他者の助けによって問題解決がなされた時に付加価値が発生するのだ、という考え方をするのが良さそう。その表現として貨幣のやりとりがなされれば、経済学によって相補的な社会の「発展」というものを定義できるようにも感じる。そのためには、貨幣の力をもっと弱め、それを定量的な問題解決度合いの尺度としてのもっと自由な表現手段とする必要がありそうだ。SNSにおける、いいねであるとか♡のようなものが、自然言語と数学的言語のインターフェースとしてその方向感を示しているとも言えそうだ。いずれにしても、情報化社会の定量化はまずこのあたりを考えることから始める必要がありそうだ。

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