リベラルアーツの意味

リベラルアーツというのはなかなか奥の深い言葉で、簡単には定義できそうもないが、かつては大学における一般教養過程のことを指していたようなイメージもあり、専門教育よりも少し下に見られる風潮もあるのかもしれない。

Wikipediaによれば、リベラルアーツの元々の意味は、

古代ギリシア・ローマに理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで、「人が持つ必要がある技芸(学芸・技術)の基本」と見なされた自由七科・自由学芸のことである。具体的には、文法学・修辞学・論理学の三学(トリウィウム)、および算術・幾何学・天文学・音楽の四科(クワドリウィウム)のこと。

Wikipedia リベラル・アーツ

とのことで、日本であればさしずめ読み書き算盤、といったところであろうか。人が自由に生きてゆくための必須の技術とでもいうべきものだと言える。

現代では、基本的な技能ということで言えば、義務教育において一通りのことを学ぶことができる。しかしながら、皮肉なことに、教育水準が上がり、誰もが当然のように読み書き算盤ができるようになると、それだけで自由人として生きてゆくのは難しくなっている。

そこで自由人とは一体なんなのか、ということを考える必要が出てくる。それは、自分の意志において考え、人と接し、そして判断し、行動する、というということに集約されるのではないだろうか。そうなると、自分の意志とは一体なんなのか、ということが問われることになる。まさにそれこそが、現代的な意味でリベラルアーツが担う部分なのではないか、と私は考える。

意志とは何か、というのは、これまた難しい問題であるが、それは行動原理であると言え、行動の基本となる信条・信念のようなものだと言えるのではないか。キリスト教などにおいては、信条告白、あるいは信仰告白によって、神に対する信仰を告白することによって異端を排除する、というようなことがおこなれている。これは、キリスト教であれば、公会議によって定められた信条を信じる、と宣言することであり、要するに神に意思を委ねるということになりそうだ。

他者に委ねた意思は意志とは言い難く、それはやはり信仰と呼ぶべきものなのだろう。信仰からは本人の姿は浮かび上がらず、それでは自由人とは言えない。自由人となるためには、自分自身の意志を信条として告白し、それに従って行動するのだ、と宣言することが必要になりそうだ。

実際問題としては、それは非常に難しいし、勇気のいることでもある。というのは、世の中に絶対の正解などはなく、それを神に委ねてしまう方がはるかに楽だからだ。実際にプロテスタントなどはそのように難しい判断のところを教会を通さずに神との直接契約にする、ということで自由を得たのだと言える。しかし、それは同じ神を信じていないものにとっては甚だ迷惑な話で、神がいいといっているからいいのだ、ということで他所の文化を蹂躙されても、そんな神を信じていないものにとっては乱暴狼藉以外の何物でもない。自由とは常にこのような難しさを抱えているのだ。

多様な世界でお互いを尊重して生きてゆくためには、神の価値判断ではなく、それぞれがどのような信条を持って行動しているのか、ということが明らかになっている必要がありそうだ。そこでリベラルアーツの出番となる。世の中に絶対の正解はないが、とりあえず人生の一段階、なるべく若いうちの方が良いと思うが、その段階で自分がその時点で限界まで信じきったものを自分の信条としてまとめ、それを信条として世間に対して告白することで、その人の考え方が明らかになる。かといって、それはドグマでもなんでもなく、それを基本にして、その後の人生において他のさまざまな価値観によって自分が信条としてまとめたものを相対化し、発展させてゆくことで、人はいつまで経っても成長し続けることができそうだ。神に与えられた信条を絶対視するのは言うに及ばず、自分で考えたことであっても、それが絶対だと信じ込むようになったら、もはや成長の余地はないのだろう。それを疑い続ける、というのがデカルト的な懐疑なのではないかと私は理解する。

このようにして、それぞれの人がそれぞれ自らの信条を具体化し、明文化することによって、世の中には多様な価値観が現れ、豊かな関係性が構築されるのではないかと期待される。価値観が具体化・明文化されないことが摩擦や衝突を生むのであって、それが具体的に表現されれば、どこがあっていないのかがお互い確認できることになる。そういうことを繰り返すことによってお互いの立場を尊重できるようになり、摩擦を減らした多様な価値観の共生ができるようになるのではないだろうか。

そんなリベラルアーツの在り方だが、最初はもちろん自分の好きなことを突き詰めようとするだろう。そうするとどこかで必ず壁にぶち当たる。その壁に対して世間とはこんなものだ、とそこで思考停止してしまったら自由人にはなれなさそうだ。そこで、その壁に対して、なぜそのようになるのか、という理由を突き詰める必要がありそうだ。物理世界が真に科学的にできているのであれば、全てのことに自然に帰すことのできる理由があるはずで、それができない、人為的ななんらかの壁があるのならば、それはどこかに因果関係の通らない認識の歪みがある可能性がある。そこを正してゆけば、科学的に言えば自分が自分の好きなことをできない理由はどこにもないことになる。そうすることによって自由人になることができるのではないだろうか。そこに到達するためには、おそらく自分が気持ちが悪いと思うことの理由を徹底して突き詰める、ということが一つのあり方ではないか、という気がする。

このように、自分の考え方の基本を固め、それを信条としてまとめて世に問うことによって自由人として生きる道を切り開く第一歩とする、という意味でのリベラルアーツの重要性は今後ますます高まるのではないだろうか。

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