目的合理性社会の限界

目的合理性というのは、効率的に仕事をこなし、日々を過ごしてゆくのに有効な手法のように見えるが、果たしてそのあり方に隙はないのか。

共同目的合理性の難点

目的を他者と協力関係を築きながら達成するにはどうしたら良いか、ということをずっと考えてきているが、理屈としては可能でも、現実適用にはさまざまな問題がある。特に、他者とは時間軸のずれがあるかもしれず、自分の目的合理性で突っ走ることと、協力関係の構築とはなかなかに相容れるものではない。

単一目的主導権争い

他者を巻き込んだ目的合理性であると、まず、目的を共有していることから、皮肉なことに個別合理性を突き詰めるとそこには主導権争いのようなことが起き得る。つまり、目的合理的な行動自体が必然的に他者との衝突につながるということが言えるのだ。一応、問題意識と方法論の違いで決定的な対立は防ぐことができると言えるが、目的の擦り合わせを対話ではなく競争や駆け引きで行おうとすると、そこには摩擦が生じ、ひいては衝突につながりうる。

集団と個の合理性の齟齬

また、目的を一つにまとめ、それを合理的な組織として運用しようとすると、たとえ目的が一致していたとしても、自分の方法論、問題意識の延長線上にある目的と、集団の目的との間に微妙な齟齬が生じる可能性がある。さらに、集団の合理性を優先すれば、多様な目的を一つにまとめるという現実的選択が取られる可能性が出てきて、そうなると自分の目的合理性との折り合いがつかなくなるかもしれない。

目的からの逸脱の是非

目的合理性を掲げると、そこからの逸脱によって他者との協力関係に影響が出る可能性も出てくる。複数他者であるとその間での時間軸に違いがある可能性もあるが、目的合理性をいったん掲げると、それを強引に引っ張って自分の目的合理性に合わせさせざるを得なくなり、当然逸脱は許されなくなる。目的合理性といっても、一つだけの目的合理性とは限らないし、また、目的外でやらなければならない日常の仕事などもあるだろう。それらが逸脱として許されないことになると、目的達成のためのロボットのように合理的に仕事をこなしてゆくことを義務付けられることになる。それは少なくとも豊かな人生という個人にとってとても重要な目的からは確実に逸脱しているだろう。

目的合理性の考え方

このように、目的合理性を他者と共に、特に集団として追求しようとすると、実務的にはさまざまな難しい問題に直面する。そこでこの目的合理性ということをどのように考えたら良いのだろうか。

緩やかな目的合理性

まずは、複数の目的を併存させ、一つの目的合理性だけではないという状態を作り、逸脱がいつでも起こりうるというバッファーを確保する必要がありそうだ。複数方向に目的合理性を飛ばし、進めるところを進める範囲で進めてゆく、という緩やかな目的合理性を追求することで、単一のガチガチの目的合理性の罠にハマることを避けることができるようになりそうだ。

共有大目的と具体的個別目的

ついで、他者との目的すり合わせでは、なるべくおおらかな目的設定として、ガチガチの目的神学論争のようにならないようにする必要があるのかもしれない。ここは非常に難しいところで、目的が曖昧で例えば用語の定義の統一であるとか、意味の擦り合わせができるのか、ということが問われることになる。そこでは、個々が大目的の下にその範囲内での自分の具体的目的を掲げそれについては個々人が明確に定義を行うことで他者からの協力をうけられやすい形にするということが考えられそうだ。

拒否権としての合理性

さらに、目的合理的な論理については、拒否を表明するときに限って適用するということも必要になりそうだ。目的合理的な説明は、どうしても、こうだからこうこうこうだ、といって理詰めで目的達成のための論理を他者に押し付けがちであるが、そうなると強迫的な論理となって他者に重くのしかかることになり、逆に全体としての合理性を損ないかねない。それよりも、本当に合理的であればそこまで理詰めにしなくても自然に運ぶはずなので、むしろおかしいと感じたときにこそ論理的にそのおかしさを説明するようにして、そのおかしさを論理的に修正、そして再適用可能なのか、ということを検討するためにこそ論理が用いられるべきではないだろうか。その際には、おかしいと感じた人がいたときにいったん立ち止まって何がおかしいのか皆で明確化する、というゆとりのある対応をとってゆくことが必要なのではないかと感じる。

狂信的目的合理性

目的合理性を突き詰めてゆくと、他者との間で摩擦が発生したときに、その目的に対する信念や意志の強さというものがものをいう形で主導権争いが繰り広げられることになりかねない。それはある種の狂信的な社会であると言え、そのようにガチガチに固まった目的合理性には、私は個人的には関わりたくないと思うし、近づくことすら腰がひけてしまう。そんな印象が社会全体に広がれば、目的合理性自体への受け止め方がネガティブになっていきかねない。

コンディショナル目的合理性

目的合理性は確かに目的の達成のためには非常に有効な手段ではあるが、目的達成のために他の全てのことを犠牲にして良い、ということにはならないはず。いかに状況の中で最適な目的合理性追求ができるのか、という、コンディショナルな目的合理性が必要なのではないかと感じる。


誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。