量子力学の功罪

物理学者の自然現象を何とか説明しようという執念は敬服に値するが、量子力学という学問分野があたかもあるかのように振る舞うのはあまり上品なこととは思えない。私の理解で言えば、それは、これまで説明のつかなかったことを、予測ー発見というプロセスを経ることによって定理、原理化されるそのありようであり、無限の可能性の中から自由に予測を立てても良いのだ、という、いわば学問の自由を保障するための仮想の枠組みとでもいえるものであり、その量子力学なる分野によって全ての自然現象が現段階で完全に説明し切られているとかそう言った話では全くないのではないか。

量子力学という防波堤によって、自然科学分野ではマッドサイエンスとでもいえることでも、学問的には自由に行うことが確保されたといえるが、一方で、その自然を社会や人間自身にまで拡張することによって、社会、そして人間自体が量子の振る舞いの如く行動するよう強いられる、という本末転倒したことになっている。つまり、量子をトークン化して人に当てはめ、それを社会という実験室で実験してみることによって仮説を検証する、という、自然科学なのか何なのかすらもよくわからないことが行われるようになっているのではないか、ということだ。分子、原子、それを構成する陽子、電子、中性子の段階ですでに目には見えず、一般の人にはそれが本当に存在しうるのか確認のしようもないのに、その先にクォークのような素粒子があるのだ、と言われても、それはもはや一般には全く実感の伴うことのない、宗教だと言っていいものだといえる。そんなトークンで、人間の思考を縛り、それによって行動を観察して素粒子の動きを”発見”などと言っても、それは多分自然現象とはほとんど関わらない、人間の錯覚なのではないか、という気すらする。錯覚を”科学”するような、量子力学の発展に物理学が依存してゆけば、科学はもはや宗教化の一途をたどり実用性からどんどんかけ離れてゆくことになるだろう。

さて、その量子の働きを活用するとされる量子コンピューターなるもの、果たして人間の使う道具となりうるのだろうか。そもそも量子自体が多様な性質のものを含んでいるので、一般的に量子コンピューターとはなんぞや、と言われても定義のしようがないだろう。その中で一つ先行しているものとして挙げられるのが、重ね合わせの性質を利用する、とされるものだ。重ね合わせとは、(足し算と掛け算で表示できる)線形モデルが複数交わるところで出力の総和は入力の総和と等しくなる、という性質を示すという(個人的な理解なので、間違っている可能性もあります。もしお気づきの点があれば是非ご指摘ください。)それによって計算速度が上がる、というのは、同じ目的について入力量が増えればそれに比例して出力量も増え、それによって目的への到達速度は早くなる、ということを示すのではないかと考えられる。要するに、具体的に言えば、例えば脱炭素のような問題に焦点を絞ることで、そのことを考える人が増えればその問題は早く解決するようになりますよ、ということなのだろう。原理的にはありうるだろうし、結構なことだと思うが、いかにしてそこに焦点を絞らせるかと言えば、資本主義体系に基けば、利益ということになり、そして出力の総和が等しいと言っているだけなので、その分配が公平に行われることは考慮されていない。つまり、脱炭素という目的を達成するために知恵を集め、そこから生まれる利益は胴元ががっぽりいただきますよ、と言っているに過ぎないのではないか、という気がするのだ。脱炭素の目標達成が早まってよかったね、と、そんなにうまく収まる話になるかどうか、私は個人的には懐疑的だ。必死になってみんなで知恵を出し、そこから上がる利益はそのコンピューターをうまく使ったものが独り占め、などという話は、長期的にはうまくいかないだろう。たとえ利益以外のもので焦点を絞らせるにしても、結局それはその焦点設定をしたものの前提の上で皆の意識を集中するということであり、例えば西洋キリスト教的な価値観を前提に、ということになれば、やっぱり他の文化圏にとってはうまいことやられた、という気持ちが残り続けるだろう。その点で、たとえ速度が上がっても、それは大きな禍根を残すことになるだろう。

ちょっとメタな話になってしまったが、技術的に言って果たして可能なのか、ということから個人的には疑問に思っている。量子に重ね合わせの性質があることが観察されたということが事実だとしても、その重ね合わせの状態を安定的にうまく作り出す、ということは果たして可能なのだろうか。さらに言えば、それが安定的になった時、果たしてそれは重ね合わせ、という言葉で定義される状態なのだろうか。それはもはや普通の原子が形成された状態ではないのだろうか。この辺り、私の想像力が貧困なので、量子の世界の想像がうまくできていないのだと思うが、直観的にはどうもうまくいきそうな感じがしない。そして、私は直観に反するものは、科学としてはどうも受け入れられない。おそらく量子という難しそうな言葉で人々を騙くらかして競争させ、その利益を吸い上げるという、量子教とでもいえるような新手の宗教なのではないか、と疑ってしまう。

難解化の一途を辿る現代物理学。難しい言葉に騙されることなく、自分の実感、直観というものを大事にして、おかしな方向に誘導されることのないようにしたいものだ。

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