意志の搾取

行動や、考えたことまでもを推測して、それが予算化され、トークンとして分配され、それをゲーム理論的にゼロサムゲームで奪い合うという状況は、意志の搾取とでもいえそうだ。

代理制民主政治というのは、要求を予算化する政治家という代理人の成果争いのために、そのような意志の搾取が恒常的に行われる仕組みであるといえる。それは、人々の意志を集めてそれを無理にでもパッケージの中に押し込んで、予算をぶんどり、実績をアピールする、というのが仕事のようになり、しかもそれが評価されるように、人々にその予算に向けて走るよう急きたてる。そこには、個々人がやりたいことをやりたいようにやりたいときにやる、という考え方はなく、ひたすら略奪ゲームを繰り返すよう強いられる世界がある。

その世界では、やりたいことを協力してやるという考え方がなく、人間関係はただ支配と従属だけで、既存の流れへのアクセス権を得られるようお願いするか、そこに力づくで入り込むかしかやり方が準備されない。それを無視しようとしても、意志の搾取によって、無理やり社会的計算システムの中に組み込まれ、競争へと駆り立てられる。そんな狂った世界。

民主主義の名の下に、数が多ければ何をやっても良い、という在り方が正当化され、多数派に属することで意志を守ってもらう、という寄らば大樹の陰の考えが主流となり、そうして集団的略奪主義が横行する。しかし、その大樹の中でも、意志で他者をコントロールしようとするものが権力の階段を登り、より支配欲、そして支配力の強いものが偉くなってゆき、そのためにその意志の搾取の仕組みは大樹の中でも作用し続ける。それはいかに他者を支配することで他者の支配から逃れるか、という食うか食われるかの仕組みだといえる。

そんなことに貴重な時間も能力も脳力も全く使いたくないのにそれを強いられる。なぜ競争ではなく協力で自らの意志を実現できないのか。なぜ人を支配する、人に支配されるのではなく、対話によってそれをしないのか。なぜやりたくもないやり方を一方的に押し付け、そのやり方で競争し、勝ち抜くことを強いるのか。勝つとは一体何なのか。相対性で人を服従させることが勝ちなのか。

私はもっと自分の達成感のようなものを重視したい。達成感とは、自分の意志との関係性で定まるものであり、他者との相対的位置関係とは一切関係がない。そこに”客観的評価基準”という余計なお世話を持ち込んで、人の”業績”を管理しようとする、その管理主義とでもいえるようなやり方が意志の搾取を生み出しているのだろう。自分の意志は自分自身でしか管理も達成もできないものであり、他者をどうこうしようという在り方が大きな間違いである。

一旦自分の意志を他者に委ねると、意志を管理されないと自分の行動を定めることができなくなる。自分のものに取り戻そうとしても、余計な仕事を割り振られたり、あるいは脳内にまで干渉されたりして、自分の意志が喪失し、流れの中に身を委ねるよう強いられる。それは、もはや自分の意志なのかどうかさえもわからず、拒否すれば怠け者の烙印を押され、更なる搾取の対象となる。やりたくないことをやりたくないという、基本的な意志の自由はどこまでいっても確保されない仕組みなのだ。

意志の搾取体制のもとでは、自分の意志を自分のものであると主張するには、それを他者に押し付けることでしか成り立たない。自分の意志を自分の意志であると主張し続け、それを押し通すことでしか自らの意志を保ち続けることができないことになるのだ。そこには、対話によって他者と支配被支配ではない協力関係を築きながら、自分の意志を、やりたいように、やりたいときに、やりたいやり方で実現する、という、自由の基本とでもいえるやり方は存在しない。

それはそのまま、権力闘争を勝ち抜かないと自由を確保できないという、自由のゼロサムゲームの状態を作り出す。それは、多様な意思を一般意思として統合し、その所有権を争って闘争する、という在り方であり、そして一般意思の所有権が定まれば、それによって自由は制約される。そこで自由を手に入れるには、ニーチェ的な意志の力でそれを突き破らなければならなくなる。

その暴力性をなくすために、政治というのは儀式を執り行う演技のように進行することになる。一般意思を体してその意思表示を代理で行う、という演技が重要になるわけで、その演技が多くの人の心を掴むことで政治力を集める、という政治劇場だ。それ自体はある種の人の叡智だと言えなくもないが、基本的には意思表示は代理人を通じてではなくて、個々人それぞれの間でなされるべきものだろう。それが、社会が大きくなりすぎることによって、個別の意思表示がしにくくなっているといえる。そこで現れでたのが一般意思という考えであり、それによって人々の多様な意思はトークン化され、それは、個別の意思が常にメタレベルに昇華され、はぐらかされたような感覚になることを意味する。それこそが意志の搾取の基本的な仕組みであり、個別意志を一般意思として吸収してしまうことが制度化されているといえるのだろう。

ここで、意志と意思について、ここまであまり明確に区別して使ってきたわけではないが、改めてその違いのようなものを考えてみたい。私の感覚では、意志というのは、自ら主体的にやりたいという考えであり、一方意思というのはこうだったらいいんじゃないだろうか、という受動的な考えなのではないか、と思っている。だから、受動的な意思が集まって一般意思になる、というのはあるのかもしれない、と思うが、それが主体的意志をも吸収、搾取する、というようなことはあってはならないし、また主体的意志を実行するために一般意思を意志の力で突き破らないといけない、というのもおかしな話なのだろう。

そこで問題となるのが、やはり強制性、という感覚なのだろう。主体的意志を押さえつけるために一般意思の中にそれを吸収してしまえば、一般意思を突き破ることでしか主体的意志は実行できなくなる。そこで、その突き破ることに強制性という枠組みを当てはめることで、主体的意志を押さえつけることができるようになる。そして、広義の強制性なる定義不能な言葉で強制性を主観的に判断できる立場に立つということは、主体的意志を通すことが広義の強制性に当たるのか否か、つまり自由の生殺与奪の権利を得るということであり、これほど強力な独裁権はないとすらいえるだろう。そして、それを力づくで突破しようとすると、その力、突破力がトークンとしてその独裁者に与えられ、自分の意志をそのトークンに乗せて進める、というやり方が合理化されることになり、結果としてそれ自体が突破力のトークンとなる強い独裁者がますます求められるようになる。このように、広義の強制性という言葉は、それ自体強力な独裁者を生み出すメカニズムを内包した、大変危険な言葉なのである。

広義の強制性が、国の関与によるものであるというのならば、国によって権利を付与された法人による、不祥事に代表されるような外部不経済は全て国による広義の強制性によるものだ、という免責が成り立ってしまう。そしてその補償を国が行うということになったとしても、その財源自体がこれほどまでにない強制力である納税によって裏付けられている以上、広義の強制性という言葉を用いること自体がますます国家の具体的強制力を増す方向に作用することになる。

だから、広義の強制性が本当に問題であると考えるのならば、現在においてその最も強力な推進者であると定義せざるを得ない法人というものを廃止するという行動を、政府の立場として公的に表明した責任を果たすべく、執り行ってゆかなければならないのだろう。それこそが、代表制民主主義が現代社会において機能しうるのか、ということを見極めるリトマス試験紙となるのだろう。

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