運命とは何か

人は時折運命を感じ、あるいは運命に縛られて二進も三進もいかなくなることがある。この運命とは一体何者なのだろうか。

二種類の人生の進み方

生き方の定め方として、主観的に自由意志に基づいて進んでゆくというあり方と、周囲の客観的評価の集合として開けてゆくものがあるのだと言える。そのうちの後者がいわゆる運命として感じられるものだと言えそうだ。つまり、自分の意図の範囲外で、さまざまな人のつながりや縁などが織合わさって、それらの認識の集合からなんとなく見えてくるものが運命として感じられるのではないだろうか。

自由意志と運命

自由意志に基づいて行動すると、その意志が他者に伝わり、その認識に影響する。そんなことが積み重なり、客観的な自己に対する評価が次第に定まると、その評価の集合が進みやすい方向として示されることになる。それが自分の思った通りのものならば、それが運命として感じられることになりそうだ。
それは、意志の強さがどの程度なのかにも関わってくるが、開けたものが自分の思い通りのものなのかどうかということで、それを運命と感じるかどうか、ということも変わってくる。それが運命でないと感じるときには、自分の意志がうまく伝わっていないということであり、それは意志の筋が通っていないのか、あるいは特定他者の認識が強く働き過ぎて、その意向が強すぎることで、自分のものとは違う様に感じるといった可能性がありそう。

意志の筋の歴史性

意志の筋が通っていないとは、自分の今までの行動と一貫性がなく、説明がうまく通っていないか、もっと進めば、自分の周囲との関係性が他者認識に影響し、あの家族ならこうだ、とか、これまで生きてきた関係性の中で例えばトラブルとなったことが大きく影響するなどして、他者の認識にバイアスが発生し、説明と他者認識とが噛み合わないというケースもありうる。さらに進めば、先祖伝来の家風の様なもので、どこの家とは代々微妙な関係にある、といった様な自分が生まれるよりも遥かに前のことすらもそれに影響してくることもありうる。これは、それぞれの人が、情報に対して、それぞれの関係性、それも世代を超えた過去からのある程度の連続性の中で認識形成をするということがある中で、他者に対する認識整理でその人の関係性を含めた意志表示というものをどの様に扱うのか、ということが決まってくるために起こることだと言える。個人としては筋が通っていると思っても、過去からのさまざまな因果の積み重ねによって、どうしても思い通りにならない、ということが起こりうるのだ。

受動的意志

こうなると、他者認識の中で自分の存在をどう位置づけるのか、という受動的な意志というものを考える必要が出てくる。そして、その受動的意志が強くなると、他者認識の集合が運命であるかの様に感じられる様になるのだと言えそう。つまり、自立心と依存心で依存心が勝ると運命が強く感じられる様になると言えるのだろう。

自由意志と駆け引き

これがさらに難しくなるのは、直接の関係性がゲーム理論的な駆け引きとなると、自由意志の表明自体が駆け引きの材料となり、それを話して何と取引するのだ、という様なことになり、自由意志の伝達自体が難しいことになる、ということがある。こうなると、自由意志表明ではない何らかの駆け引きによって他者の認識を自分の都合の良い様に誘導する必要が出てきて、そうなると現れた現象が自由意志の結果なのか、はたまた運命なのかということの判別自体つけにくくなってゆく。
自由意志と運命の区別がつきにくくなってくると、経済的功利主義に基づいて貨幣獲得を極大化して、それによって自由意志の表明手段であると言える購買力を手に入れ、自由意志で行動しているのだ、と自己正当化したくなる誘惑に駆られる様になり、そうして貨幣の奴隷という運命に絡みとられることになるのだと言えそう。

運命優先の悲劇

自由意志が運命に従属せざるを得ない状況というのは、私から見れば決して幸せな状態であるとは思えない。しかも、運命に絡みとられていても、自由意志であると信じないとやっていけないというのはさらに不幸なことであると言える。その様な状態を防ぐためには、ゲーム理論的駆け引きをなくすこと、貨幣獲得極大化が自由意志の獲得手段であるという勘違いを元に戻すこと、そして因果の乱れを正すために歴史の歪みをできる限り無くしてゆくことが必要になってくるのではないだろうか。

運命のくびきから逃れるために

ゲーム理論的駆け引きの代わりに、それぞれが自分のやりたいことを正直に公開し、それに従って気の合ったもの同士がそれぞれのケイパビリティによって成立しうる補完関係をできるだけ多く構築してゆく、というやり方が良さそうだ。貨幣獲得極大化の代わりに、最低限の生活が保障されて生きることが自由意志のみで成り立つ様にした上で、補完関係の構築のためには貨幣よりもケイパビリティの方が重要になるという認識が一般化される必要があるのだろう。歴史の歪みをなくすためには、どうしてもその様な歪みを生み出さざるを得なくなる権力とか権威をできるだけ小さくし、歴史について皆が自由に意見交換ができる様になり、認識形成に力による偏りが発生しにくくする様にする必要がありそう。

自由意志の発露・実践こそが人の生きる基本であると考えることで、運命に支配されない様な世界を実現してゆくことができる様になるのではないだろうか。

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