最適情報圏

経済学には最適通貨圏として、概念的に通貨が流通するのに最も適した範囲があると想定されることがある。それは、とりわけ、ユーロ導入の時に議論となった話であり、通貨というものをどう考えるのかという議論において重要な役割を果たしていると言える。

まずはその最適通貨圏についての議論をWikipediaをベースにして自分なりにまとめてみたい。

最適通貨圏
経済学において、最適通貨圏(さいてきつうかけん、英: Optimum currency area)とは、その地域全体で単一通貨を持つことが経済効率を最大化するような地理的な地域のことである。

Wikipedia|最適通貨圏

言葉にすると何となくそれらしく思えてしまうが、実際のところ経済効率を最大化というのは全く定義不能なのではないかと考えられる。地域全体といっても、通貨圏を広げることでメリットを享受するところもあれば、不利益を被るところも当然の如くある。そして単一通貨か個別通貨かというのは、単一通貨での全体での経済効率と個別通貨でのそれぞれの経済効率を総計したものとを比較するということになるのだろうが、それには為替レートの問題もあれば、何を経済効率と考えるのか、例えば単一通貨導入のための設備投資を経済効率向上の根拠とするなどのことがあれば、それは全くフェアな計算ではない。さらに言えば、最適というのは常に誰にとって最適なのか、という問題を喚起する。例えば、単一通貨導入によって物価が上がるということになれば、値上げができる企業にとっては最適であっても、生活が苦しくなる庶民層にとっては全く最適ではない可能性もある。
結局のところ、それは経済的概念というよりも、政治的概念であるということができそうだ。

しばしば引用される最適通貨圏を構成するための4つの基準(抜粋)
その地域における労働者の移動性。
資本移動、価格、および賃金の柔軟性がその地域において解放されていること。
リスクの共有システム、例えば、上記の最初の2つの基準に対して不利な影響を受ける地域・セクターに対する資金の再分配を目的とした、自動的に財政移転が行われる仕組み。
参加国が似た景気循環を有していること。

同上

これらの基準が、それが政治的概念であるということを如実に示している。労働、資本の可動性、財政の共有というのは政治的措置がなければ実現不可能であり、景気循環を似たものにするためには、同じような政治的文脈で社会が動いていることを意味するだろう。

伊藤(2003)によれば最適通貨圏の条件とはつぎの6つである。
域内諸国間の産業構造の類似性、あるいは構成国1国当たりでの産業構造の多様性
経済の開放度と域内貿易依存度の高さ
インフレ率の収斂
生産要素価格の伸縮性
生産要素の移動性の高さ
域内諸国間の公的所得移転の高さ(財政の統合)

同上

経済学者が好みそうな内容が並んでいる。モデル化のためには規模が大きくなった方がやりがいも出てくるのだろうが、それは本来なら多様な経済生態系があったものを、結局モデル通りに全て均質な経済にならしてしまうものだと言えそうだ。
注目したいのが生産要素の移動性の高さで、生産要素といえば、土地、資本、労働となり、このうち土地は動かし難く、資本のうち生産設備のような実体資本も可動性は低く、だからここでは資本のうち金融資本と労働の移動性の高さを言っていることになると考えられる。
しかしながら、三つ目のインフレ率の収斂という項目と併せて考えると、物価が高い地域というのはおそらく生産力が低く、物資を地域内輸入に頼っているから相対的に物価が高くなるのだと考えられ、その時に金融資本と労働の移動性の高さがあったからと言って、それによって物価が高い地域に生産設備投資がなされるとは思えない。財政でその調整をしようとしても、生産要素価格の伸縮性があれば、公共投資がなされても、物資不足から更なる物価上昇を招き、インフレ率が収斂する見込みは何一つない。すなわち、このモデルは全く絵に描いた餅で、政策が実現する経路を全く描けていないのではないかと考えられる。

なお、その他の条件も提案されており、それは以下のものである。
生産の多様化(ピーター・ケネン)
同質性への選好
運命の共通性 (「連帯 Solidarity」)

同上

市場が統合され、規模の経済が働きやすくなった時、生産の多様化が図られるかは甚だ疑問。実際、その次の同質性への選好と考え合わせると、生産を多様化することに意味を見出すことができるのかは私にはわからない。
果たして、通貨を共有しているからと言って、見たことも会ったこともない人々との共通の運命などというものを考えうるのだろうか?それは、運命が共通的だから通貨統合するのか、それとも通貨統合の結果として運命が共通的になるのか。それは、通貨の導入から現代に至るまでの歴史解釈をいかにまとめるかにも通じる話であり、運命が共通だからと言って、個別の細かな事情がすべて運命の中に取り込まれてしまい、忙しく日々を送らなければならないということにはならないか?

凶作、労働者のストライキ、あるいは戦争など、共通通貨を用いている国のうちのひとつが実質所得の減少を引き起こしたとすれば、当該国が共通通貨を使用して(あるいは当該国の外貨準備によって)、調整コストが将来に渡って効率的に拡散してしまうまで(域内)他国の資本を利用することができるため、当該国が保有通貨量を縮小させ所得減少の影響を和らげることが許容される。一方で、もし、この二国が別々の貨幣を弾力的な為替相場制で使用していたならば、全体の損失をそれぞれの国が個別に受容しなければならない。そのため、当該国にとって共通通貨は全体としてショックアブソーバー(緩衝装置)として働かない。ただし、非兌換通貨の放棄によって通貨が減価し、これが外国為替市場で投機的資金流入を誘発する場合を除く。
— Mundell, 1973、Uncommon Arguments for Common Currencies p. 115

同上

これはあまりに夢想的だと言わざるを得ない。前者は財政移転が無制限になされることを前提にしなければ成り立たない。そのような財政のただのりに寛容であり続けなければ最適が確保できない仕組みが果たして最適なのであろうか?
後者は、そもそも一つが実質所得の減少と言っているのに、いきなり全体の損失の話になることが全く理解できない。変動為替制における共通通貨の位置付けがよくわからないのだが、特定の国の経済的被害は、実体経済においては通貨安で調整され、そこにSDR的な共通通貨が投入され、当該国通貨買をすることで、金融緩和が可能になるということなのだろうか。それならば十分にショックアブソーバーの機能を果たしているといえそうだが、最後の一文がそのことを投機的資金として批判的に指摘しているようにも見える。何にしても、全体としてあまりよく整理された議論であるようには見えない。

最適情報圏

私は、このような経済における最適通貨圏の議論は、価値観の統合によって個別の文化圏を破壊してしまうものであるように思えてならない。だから、私は、通貨を異種価値観における交換促進ツールとして機能させるのならば、価値観の統合ではなく、多様な価値観を保証し促進する仕組みとセットでないとうまくいかないのでは、と感じている。そこで提案したいのが最適情報圏の考え方だ。

最適情報圏とは、個別の文化圏の維持を最適に行うことができるような情報圏であると定義できるのではないか。現実問題として、多様な価値観を通貨を用いた経済制度と結びつける場合に、何を信用の根拠とするのか、となると、ひとまず相互の価値観を尊重できるという姿勢が必要となるのかもしれない。そこで、現実世界では、そう言った新規参入者に対して、行動評価を行うことで、その信用を確認しようというステップが踏まれるのだと考えられる。それが、わかれよ、の空気の形成に大きく寄与するものであると考えられ、かと言って、その仕組みを用いた既存の経済システムは、地域によっては限界点を迎えているものもありそうだ。つまり、社会内の相互行動評価によって、相互監視のような状態となり、経済は信用争奪戦となり、通貨が交換を促進するなどということが保証しきれない状態になっているといえそうだ。

そこで、まずは相互の技術、ケイパビリティをお互い承認する、というところから最適情報圏の設定を始める必要がありそう。ここで、技術、ケイパビリティの独自性は、ある程度範囲を限定しないと、重複が起きやすくなり、誰を承認したら良いのか、ということで競争的要素が強くなる。もちろん、ある程度の競合は、その中で差別化、個性化のためにも必要になるだろうが、国、ましてやグローバルレベルになった時に、どのケイパビリティを承認するのか、という確認をとるのにコストがかかりすぎることは望ましいこととは思えない。ある程度の地理的制約があれば、稀少のケイパビリティにチャレンジしてみて、自分がかなわないと思えば相手に承認を与え、自分の方がいけると思えば差別化した上でそのケイパビリティ市場に参入すれば良いことになる。どちらが生産的競争を促すかは明らかではないだろうか?
さて、そのようなケイパビリティの相互承認によって最適情報圏のベースができると、最適通貨圏の議論に合わせるような形で、その最適情報圏の基準について考えてみる必要が出てくる。

最適情報圏の基準

その地域における情報発信者の情報発信の自由度
情報の量、志向性、及びそれが形成する関係性の柔軟性がその地域において保障されていること
情報の共有システム、例えばその地域に限定して情報伝達を行うメディアが、できる限りその地域にあまねく共通の情報配送の仕組みを整えること。
地域内が似たような文化的、歴史的認識基盤を有していること

と言ったことが考えられそうだ。
一つ目の情報発信の自由度は、表現の自由で、何を表現しても、議論の対象とはなっても、それを威圧や暗黙の圧力などで押し潰すことはしないということによって保障されるだろう。発信された情報に対しては、正々堂々と議論で対応すれば、情報空間の治安は公開された部分の公正な市場評価によって十分に確保されるだろう。
二つ目の情報とそれの作り出す関係性が硬直的なものにならず、柔軟に、つまり一度表現したことが固定的に付きまとうのではなく、調整しながら柔軟かつ拡張的に推移してゆくことで、情報によって発生する認識を巡る激しい争いが避けられることになる。
三つめの情報共有システムについては、ある地域で情報がフラットに流通することで、市場を機能させるような擬似的な情報の完全性が作用するようになり、情報交換、そしてそこから生まれる実際の経済、社会活動も活発になることが期待できる。
最後の共通の文化的、歴史的認識基盤については、最適通貨圏における運命の共通性と相似をなすとも言えるが、ケイパビリティの相互承認の大体の基準として文化的、歴史的にガッチリとではなく、だいたいこんな感じという感覚が共有されていれば、情報交換も滑らかに行われるだろう、という感覚的なものになる。それは運命などというふり被ったものではなく、もっと緩やかな感覚的なものになる。

こうした最適情報圏は、通貨による”最適”通貨圏を、最適に機能させるためにも必要不可欠なものになるだろう。そして、必要ならば、その最適通貨圏の中に、最適情報圏に合わせた補助通貨的なものを導入することによって、その相補的最適性はさらに増すことになる。

経済学というのは、定量性を重視し、数字によるモデル化を優先するために、どうしても理屈優先で、現実とは乖離したモデルが多くなりがちとなる。そしてそれは、規模を大きくし、グローバルレベルにすればするほどミクロ要件を無視しやすくなってモデルとしての完成度が高まったように錯覚されるようになるので、大きなモデル化をしたがる傾向にあるのだといえそうだ。
それをいったん古典派の時代のような、身近なミクロをもっと重視した物に戻し、実践的なものとして再構築しないと、なかなか現実的なモデルとしては認識されづらくなってきているのではないだろうか。もっと地域レベルに焦点を当てて、そこから何となく一般化できそうな教訓を緩やかに汲み取る、というような形にしないと、現実から乖離したようなガチガチの数理的モデルが一方的に先行し、それに従うよう現実の経済社会に強い圧力がかかり続けるというのはあまりに馬鹿げている。
そんなことを避けるためにも、最適情報圏で地域をそのような数理的モデルの悪魔から守る、という情報安全保障的な情報自治政策が必要となるのだろう。

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