見出し画像

ヨハネ・パウロ2世と国際政治(下)

*少し筆が走りすぎている部分があります。事実と私の推測は分けた上でお読みください。また、事実関係もご自身で裏どりをしていただくことをお勧めします。

シェーラー哲学的観点からのヨハネ・パウロ2世評価

前回述べた個人的なシェーラー解釈に基づいて、彼の考えを実践応用的に考えてみると、それは、価値二元論を徹底させた、非常にデジタル的な哲学であると言えそうだ。ヨハネ・パウロ2世の考えがそのシェーラー哲学に基づいていたという観点からもう少し社会への影響について考えてみたい。

コンピューター技術への影響

この影響が最も顕著に現れたのが、第二次世界大戦後に急速に進化したコンピューターであると言うことができそうだ。コンピューターは、0か1かの二進法で定義されるデジタルの世界であり、それは価値二元論と非常に相性が良かった。ヨハネ・パウロ2世の就任に先立って、1977年6月に史上初の完成形としてのホームコンピューターAppleⅡが発売され、これまで大規模な機関でしか使えないような巨大なメインフレーム型しかなかったコンピューターに対して、個人で使えるような小型のものが実現した。特に表計算ソフトであるVisiCalcが79年に登場すると、AppleⅡは爆発的に売れるようになった。そして、81年にはこれに危機感を持ったメインフレームの巨人IBMがパーソナルコンピューターIBM PCをリリースした。この時にOSとして、マイクロソフトのMS-DOSが採用され、IBM向けにはIBM PC DOSとしてライセンス契約となり、マイクロソフトはそれ以外にも販売ができることとなった。

民主主義のOS

この、PCを動かすオペレーティングシステムという仕組みは、民主主義を広げるための大きなツールとなった。つまり、普遍的価値のようなOSがあれば、どんな社会でもデジタル的に動かすことができるのだ、という考えで、しかも、民主主義という多数決の原理と組み合わさることで、政治的意思決定を0か1かの単純賛否の集計で決められるという仕組を構築できることになったのだ。そして、その普遍的価値を、各宗教との和解を行い、宗教界の頂点に立ったヨハネ・パウロ2世が主導することで、その価値判断によってデジタル的に社会を制御できるようになったということが言えそう。それは、ビジネスの世界においては、預言者であるCEOのもとでの勢力争いのようになり、大企業が市場でシェア争いをするという、グローバル市場をめぐって、ブランドという価値を普遍化する、大競争の時代の幕開けを告げることとなった。もっとも、それが本格化するのは冷戦終結後なので、この話よりも少し先のこととなるが、その萌芽は既に現れてきており、それがこのIBMの問題からみて取れる。

PCのOS問題

さて、このIBMのOSの話は少し複雑な話となっている。パーソナルコンピューターと言う言葉が広く使われ出したはIBM PC以降となるが、それ以前はマイクロコンピューターという呼称が一般的であった。そのマイクロコンピューターのOSのデファクトスタンダードは、デジタルリサーチという、最初のソフトウェア会社とでも言える会社のCP/Mというものだった。しかし、IBMとデジタルリサーチとの交渉はうまくいかず、マイクロソフトにその話がやってきた。マイクロソフトはその頃OS開発までは手が回らない状態であった。そんな時、シアトル・コンピューター・プロダクツという会社のティム・パターソンが86-DOSというDOSを発売した。マイクロソフトはティム・パターソンを雇い、86-DOS1.1も購入して、MS-DOS、さらにPC DOSと名前を変えて81年8月にIBMに提供した。IBMは当初IBMのみへの提供を求めたが、マイクロソフトはMS-DOSとして他メーカーへのOEM供給を主張し、それが通ったため、結果的にMS-DOS、そしてその後のWindowsのOS市場席巻への道が切り開かれたことになる。デジタルリサーチやシアトル・コンピューター・プロダクツは、商品力というよりも、マイクロソフトの戦略や交渉力に負けたことになり、そしてそれは非常に大きな差となった。

IBM産業スパイ事件

さて、IBMのPC導入と前後して、日本では、それまでIBM製品の汎用品を出していた日立が、IBMの情報を盗み出したとして囮捜査の対象となり、その結果82年6月22日に日立と三菱電機の社員が産業スパイで摘発され、結局司法取引に応じる、という事件が起きた。これは、IBMのメインフレーム機の技術文書の内容が盗まれた、とされ、特にブラックボックス化されていたインターフェースの情報が漏れたとされた。

IBMサイドの事情

経営的にみるだけでも、これにはいくつかのポイントがある。まず、IBMとすれば、メインフレームの技術情報流出を法的なテーマとすることによって、PCでのMS-DOSの拡散にストップをかけようとした可能性がある。実際、PC市場は結局この後Windows95が出る95年まで、非常に緩慢とした発展にとどまった。この事件の影響は予想外に大きかったのだと言えるのかもしれない。そして、インターフェース情報が問題となったということで、その時点では既にハードウェアでアメリカを凌駕するようになっていた日本企業がIBM互換のハードを作るためにどこまでIBMに従わなければならないか、ということが問われたことになる。基本的にアメリカでは、IBMが70年に独占禁止法に引っかかったことでアンバンドリングとしてハードとソフトを別に売らないといけなくなっていた。それが日本でどうなるのか、ということが問われたのだと言えそうだが、本来的には日本でも独占禁止法を適用して対応すべきだったのだが、内閣府直属の公正取引委員会は、鈴木善幸政権末期から最終的には中曽根政権においてそれができなかったということになる。

日本側の事情

一方で、日本ローカルで見ると、この事件の本丸は、実際には、日立による富士通潰しであると考えることができる。もともと、ずっと日立がIBM互換機を出しており、それによって日立は日本市場でIBMについで二番目のシェアを誇っていた。それに対して富士通はFACOMという、独自の大型コンピューターシステム開発を進めていた。1968年には池田敏夫が中心となって、世界初のマルチプロセッサー、つまりCPUを二つ積んだコンピューターであるFACOM230-60を完成させ、130台以上を出荷して、70年には日本市場で日立を抜いてIBMに次ぐ第二位のシェアを獲得した。一方で、池田は、ユーザーサイドからのIBM互換性の要望を受けて、69年にIBMのコンピューター設計者で同社のメインフレーム機の開発を担っていたジーン・アムダールに接近した。アムダールはメインフレーム次世代機の開発をめぐってIBMと対立を生じており、70年には同社を退職し、自らアムダール社を創設した。その年はIBMが独占禁止法に引っかかった年でもあり、それがアムダールの独立の追い風となっていた。富士通はそんなアムダールと提携し、IBMプラグコンパチブルマシンの開発に踏み切ったのだった。ここには富士通内部の内紛、というよりも乗っ取り工作と言っても良いと思うのだが、そう言ったことも関わってくるが、そこに深入りすると泥沼にはまり込むので、当面はそこには触れない。そしてそこにさらに通産省が介入し、通産省主導でコンピューター業界を3つのグループにまとめるという案が出て、それに沿って日立と富士通をまとめてIBMと提携させようということになった。IBM互換機を出している日立と、IBMから別れたアムダールと組んでいる富士通が一緒にできるわけもないのであって、これは明らかに日立が通産省を巻き込んで富士通を潰しにかかったのだと言って良いのだろう。そんな中で、71年にニクソンショックが起きたこともあり、円高となって富士通のアムダールに対する立場が強くなったか、富士通側が主導権を持つようになった。そんな経営的な手法と、技術者としてのアムダールとの関係に苦労したこともあったためか、74年に池田が急死するのだが、その一週間後に発表されたFACOM M-190は5年間で500台以上売り上げ、79年にはシェアでIBMを抜いてついにトップに立ったのだった。

和解交渉の実相

それを受けてこのIBM産業スパイ事件が起きたのだが、83年10月3日にIBMは日立と和解し、損害賠償は無くなったが、IBMはその後5年間にわたって日立が発売するコンピューターにIBMの機密情報が使用されているかどうかを検査する権利を手に入れた。これによって、日立と組まされた富士通の機密情報がIBMに筒抜けになる可能性が出てきたのだった。そして、その和解からおよそ半月後の10月20日、ニューヨークでIBMのスポークスマンが日本人記者に対して、富士通がIBMと基本ソフトに関する秘密協定を結んでいたことを漏らした。これは82年10月から83年7月にかけて、つまり日立が囮捜査の和解交渉をしているのと連動して行われており、つまりIBMは日立を使って脅しをかけながら富士通との和解交渉を有利に運んだ疑いがある。富士通はアムダールとの提携で正当に権利を得ていたはずなのだが、結局押し切られる形になったと言えそうだ。それは、それに先立ってのPCでのOSの権利がどこにあるのか、というところから伏線を張って、ソフトウェアライセンスの範囲を広くとることで法的に抜け穴を塞いでおいての交渉であったと考えられそうだ。また、別の観点では、もしかしたら、富士通は日立と提携せずに独自路線で行こうと考えていたのが、これによって無理やり日立と共犯のように仕立て上げられ、日立と組まされた、という可能性もある。

グローバル価値紛争

ここで少しグローバルに視野を移してみると、それは、ヨハネ・パウロ2世が教皇に就任したことで急激に浮上した、何が正しいのかを誰が決めるのか、ということについての、最初の具体的紛争であったと言えそうだ。それがまさに日本において独占禁止法を適用すべきか否かという決断に影響したのだと考えられる。そのことについて考えるために、IBMと日立との司法取引について見てみたい。この司法取引の内容は、もしかしたら、その直後に起こった第一次教科書問題に関わることなのではないかと疑われる。それは、82年6月26日に教科書検定によって、中国の華北地方への出兵を進出と書き換えるよう指示が出た、という疑惑が、新聞やテレビによって一斉に報道されたというものだ。日立製作所というのは、日産グループの元となった久原財閥の中核企業久原鉱山から分立した会社で、そして日産の元となった日本産業は後に満州重工業と名前を変え、満州開発の中心企業であった。サンフランシスコ講和条約と日中共同宣言によって戦後賠償問題は一応解決したが、国家賠償放棄ということと、満州における民間企業としての満州重工業の資産をどうするのか、という問題は別のことであり、それは未解決であったかもしれず、その処理について何らかの司法取引があったのかもしれない。それは、満州について進出であったか、侵略であったか、というのが、資産取得の正当性に関わる重要な問題につながることになり、そのために教科書問題が火を吹くことになったのではないかと考えられる。なお、IBMと和解した時の富士通の社長だった山本卓眞は、満州で終戦を迎えている。

三菱の場合

一方で、なぜ三菱が関わるのか、ということであるが、その後も、三菱の名をコンピューター関係で見出すことはほとんどなく、電機産業に関わりがあったということすら大いに疑わしい三菱は、特に戦後の資産取得について、軍需工場が三菱のものであったというように主張して、その生産設備を、国有財産法で禁じられていたのにもかかわらず、抜け道を作って取得した疑いがあり、さらには、戦前から持っていたとされる丸の内などの土地についても、その取得経緯には少なからぬ疑いがあるのではないかとも考えられ、そのロンダリングのためにより上位の法秩序、日本を占領していたアメリカの法であったり、あるいはローマ教皇の権威によって、その資産取得の正当性を確保するために、わざわざ関係もないこの事件に顔を出したのではないかと疑われる。これらのことによって日本は、敗戦国としての立場を必要以上に拡大して認めることとなり、事実上通商上の治外法権を認めたことになる。それはのちに独占禁止法の域外適用という非常に歪んだ形の議論としてゾンビのように甦ることとなったが、それはまた別の問題である。

IBMと旧ソ連とのつながり

また、興味深いことに、IBM中興2代目とも言えるトーマス・ワトソン・ジュニアは、IBMを辞めた後、カーター政権後半の79−81年にかけて駐ソ連大使を務めている。トーマスは、戦時中にソ連に対して莫大な物資を無償援助したレンド=リース法の担当を務めていたブラッドレー将軍を乗せてソ連まで飛行機を飛ばしていた。一方で、戦争中のソ連外交を担ったヴャチェスラフ・モトロフは、その後フルシチョフに対する反党グループに参加したため、政治局を追われていたが、KGB出身のアンドロポフが第一書記になった後、死の2年前の84年に90歳を超えた高齢で政治局に復帰している。これは、何らかの功に対する褒賞であると考えるべきで、ソ連大使としてモスクワに来ていたトーマスに接触しIBM経由で満州関係の権益に何かしらのアクセスを得た可能性がある。ここで引っ掛かるのが、日本がポツダム宣言を受諾した後に旧ソ連が千島列島に侵攻してきたことである。前にも書いた通り、ソ連側からカムチャツカ経由で千島に攻め込むのは物理的に結構大変であると言える。一方で、アメリカ軍はアリューシャン列島を攻め落とし、そのすぐそばまで来ていた。その部隊をアメリカ本土に返すのもまた多少なりともコストがかかることになる。そこで、ソ連に援助物資で渡したということにして千島列島に侵攻させれば、少しでも日本から領土を削り取ることができることになる。実際に艦艇に関してはフラ計画に基づいて米軍からソ連軍に145隻の艦艇が無償貸与されているという。ヤルタ協定があり、さらにはポツダム宣言後にアメリカが直接攻め込むことはできないだろうから、ソ連名義で攻め込ませるということには、政治的にもアメリカにとってメリットがあった。そしてそれは、スターリンとは対立関係にあったとみて良い、外交を担当していたモトロフとの共謀であった可能性が高く、それは、連合国側でも悪役を作るのならば、スターリンをそれにあてる、というシナリオ上で進んでいた可能性がある。

政治工学

再び国内に目を移すと、これには、日本政治の構造的問題があった。IBMと日立の和解が成立した83年10月12日には、ロッキード事件の1審判決が出て、田中角栄に懲役4年、追徴金5億円が申し渡された。日本政治は、その田中により利権政治が真っ盛りとなり、田中がわずか2年余りで退陣した後でも、利権を軸にした人間関係を見ることで、選挙の票読がほぼできるような状態になってきていた。経済における公共事業の占める割合が、特に地方において大きく高まったのを受けて、金の流れがいかに公共事業にありつくかによって決まる、という構造になったことで、自ら選ぶ国会議員経由で公共事業につながる必要が出てきて、だからそこにつながる人間関係を見れば、誰がどこに入れるのか、というのはほぼわかってしまうことになったのだ。これは、典型的には、当時は自民党を離れて新自由クラブを作っていたが、河野洋平という議員の主催していた政治工学研究会という名前にあらわれている。つまり、政治を工学的に動かすことができるのだ、という、これ以上ないような民主主義を冒涜した名前を、国会議員のグループの名前として掲げていても、誰もおかしいと思わないどころか、むしろ若手議員のスター的な存在として持ち上げられていたという、異常な状態があったのだ。そんな河野は、ロッキード事件の発生に伴い、自民党を離党して新自由クラブを作っていたが、それが内部分裂の果てにどんどんジリ貧となってゆく中、83年の年末に行われた田中判決選挙とも呼ばれる第37回衆議院選挙で、新自由クラブは2議席減らして8議席となりながらも、自民党が過半数を割ったために、連立を組んで政権入りした。この時の内閣は、かつて河野一郎が所属していた春秋会の後を引き継いだことになる中曽根康弘が首班を務める第二次中曽根政権であった。新自由クラブは、河野をはじめとしていわゆる親中派の議員が中心だったということで、誤報にもかかわらず多くのマスコミが一斉報道したという不自然な第一次教科書問題が起こった具体的な力学としては、この新自由クラブが政局を仕掛けた可能性は否定できない。河野の父である一郎も、そして当時新自由クラブの代表を務めていた田川誠一も、朝日新聞の出身であった。地理的に言えば、問題となった日立の神奈川工場は河野洋平の選挙区にある一方で、富士通の本社は田川の選挙区である川崎にあった。そして、川崎ではちょうどその頃川崎公害訴訟が起きており、反企業的なセンチメントが醸成されていた。もちろん富士通自体は公害とは一切関係ないと言って良いと思うのだが、大企業叩きというのを票にしようという企みであったかもしれない。その思惑に反して、田川は次の選挙で25,000票、得票率にして4.2%と大きく票を減らし、3位当選となった。政治工学とは言っても、実態はそんなものであるという証明であろう。おそらくそれを受けてその選挙後に新自由クラブは解散し、河野らは自民党に復党し、そして政治改革を訴えて、より政治工学が機能しやすい小選挙区制の導入に狂奔することになるのだろう。一方で河野洋平の息子である河野太郎はちょうどこの頃アメリカ初のカトリックの大学であるジョージタウン大学に留学しており、84年にはワルシャワ工科大学に交換留学生として入り、ワルシャワで1年間過ごしている。なお、当時レーガン政権の国務長官アレクサンダー・ヘイグもジョージタウン大学の出身であった。

ヨハネ・パウロ2世の負の側面

ヨハネ・パウロ2世の考え方というのは、このように、想像もつかない形で、その就任直後から国際政治に大きな影響を及ぼしたのだと言える。人の考え方が、そのようにデジタル思考的に二者択一で全て定まり、その選択によって運命が定まってゆく、そしてそれが単純化された政治構図に直接影響し、人を政治的利益極大化ゲームに麻薬のように没頭させるという社会のあり方は、確かに宗教的には常に何らかの蜘蛛の糸に頼ることが有利になるということで望ましいことなのだろうが、宗教を必要とするために社会の仕組みを二者択一的にしてゆくというのは本末転倒という言葉でまとめて良いほど軽いことではない。功利主義の手段として、宗教を政治の道具にした罪はあまりに大きいと言わざるを得ない。宗教のために社会や人があるのではなく、人がなるべく幸せに、悩み事なく過ごせるようにするために社会や宗教があるのだ、という基本的な考えに立ち戻るべきなのであろう。


参考
IBM産業スパイ事件について
Wikipedia 関連ページ

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。