マルクス的労働価値説の帰結

昨日マルクス主義批判を行ったが、そんなマルクス主義が魅力的に見えるのは、革命による解決という結論を別とすれば、労働価値説に基づいた経済分析がそれなりに当時の経済状況をよく説明していた、あたかも科学的であるかのようにみえた、ということがあるのだろう。もっとも、単純でわかりやすい構図が本当に現実を説明していたかは全くの別問題であり、結局のところ革命理論が現実の革命を説明しており、経済理論はその理論的根拠として都合が良かったから人気を得たということで、経済分析自体も当時の状況を説明していたかと言えば大きな疑問が残る。というのは、当時は君主制国家から国民国家への移行期にあたり、政治が大きな混乱状況にあったので、その中で冷静な経済分析が可能であったかと言えばほとんど不可能であり、だからこそ非常に一般化された土地・資本・労働の三分法の中で資本と労働の対立という構図は非常に明快でわかりやすかったということがあるのだろう。

そして、その理屈は労働価値説に多くを拠っていると言える。しかしながら、労働の正当な評価などというのは客観的に定めるのはまず不可能であり、それは常に相対的となり、他者の評価によって定まってゆくことになる。つまり、その評価決定プロセスは常に政治的であり、特に人事権者が圧倒的な権力を持つ中では、少なくともスミス的な市場による調整機能は働き難く、その意味で経済学的な分析の枠組みでは評価し得ないのだと言える。
マルクスは、ミクロ的に付加価値配分を地代・利潤・労賃に分けたが、市場を通す地代と利潤はともかくとして、労賃に関しては、利潤から取り分を確保するというマルクス的な考えでは、市場原理は働きようがない。仮にあるとすれば、実力主義、成果的な配分ということになり、そうなると、資本主義的には市場からいかに利潤を稼いできたかによって成果が定まるが、マルクス主義的には利潤からどれだけ労賃の取り分を増してきたかが成果となり、それはゼロサムゲーム的になる。つまり、資本主義よりもマルクス主義の方がはるかに競争主義、あるいは対決的であり、そして権力指向的であると言える。その意味で、マルクス主義の観点からの市場批判というのは、市場よりももっと過酷な権力闘争を強いることになり、そして全く経済学的な対案を提示するものではない。それは、その考え方が革新によって市場を切り開こうというものではなく、何であれ利潤からの取り分を増やすというものだからだと言える。
それが典型的に示されるのが、マルクス主義的な新自由主義批判だと言える。本来的には、市場ではなく組織の力を強めるような株主資本主義や、実需に関連する現物財よりもその市場水準に実需を歪める形で介入する金融資本主義といったものが、一部の人に対して市場の枠を超えた自由を認めるという点で、批判されるべき新自由主義ではないかと私は考える。しかしながら、利潤からの取り分を極大化するというマルクス主義的な観点からは、実は利潤を増すという意味で、資本の力を増す株主資本主義や、利潤率を直接的に上げる金融資本主義は、結果として労働者のシェアが変わらなくても取り分は増えるという意味で、批判の対象とはなりにくい。それよりも、雇用を奪う国営企業の民営化であるとか、労働市場の活性化を図るための雇用規制の緩和といったことの方が、マルクス主義的には攻撃の対象となりやすい。それはどちらも政府統制よりも市場の力を活かすという経済学的には合理的な政策であり、それが批判の対象となりやすいという時点で、マルクス主義は経済学であるというよりも政治学であるという現実を如実に示していると言える。

さらにその姿勢を明確に示しているのが、法人税減税と外国人労働者に対する姿勢だと言える。法人税減税は、労賃への分配が終わった後の利潤にかかる税金なので、これを減税されてもマルクス主義的な成果にはつながらない。だから、法人税批判をすることで株式会社、ひいては資本家批判の中心とすることができるというマルクス主義的には重要な政治的ツールとなる。"その意味で、法人税減税に反対はしても、おそらく法人税の撤廃というところまでは踏み込まないのではないだろうか。"(12月1日 勘違いがあったので””内は取り消します。)

一方の外国人労働者に対する姿勢であるが、組織の内部者、つまりすでに雇用の対象にある労働者に対しては当然保護を主張する。そしてその先に現れる論点は、社会主義インターナショナルの立場か、一国社会主義の立場か、ということになる。それは共産党の路線対立の中核とも言える部分であり、共産党内では非常に先鋭化しやすい問題なのだといえる。理想的に言えば、どの労働者どころか労働者以外についても平等に扱われるというのが望ましいのはいうまでもないが、仮に優先順位をつけるとしたらどうなるか、という問題で、そして外国人労働者の保護を主張する社会主義インターナショナルの立場は、いわば革命の輸出の中心的な勢力であると言え、何であれ外国人労働者の権利を中心に据えれば、政治的には革命含みで大きな力になりやすい。つまり、外国人差別という、”普遍的価値”に対する挑戦ということで、それを軸にして資本や国家に対して非常に大きな政治的カードを手に入れることになり、それは革命に向けての大きな武器となる。一国社会主義ならば、それでも国に対する責任はあるので、国に対してそのカードを使うことはしないのだろうが、社会主義インターナショナルとなるとそうはいかない。何であれ、革命に繋げて、自らが権力を握ったらなりふり構わずその支配を強化するために何でもやる、というマルクス主義の非常に暴力的な部分が露出することになるのだ。

だから、マルクス主義と民主主義が共存しようと思えば、最低限一国社会主義の立場は保たないと歯止めが効かなくなる。そして、社会主義インターナショナル的な革命志向の立場が厳然として存在する限り、組織的に、あるいは法制度的に外国人労働者を優遇するという理屈は大変危険なものとなる。それは外国人労働者に限らず、外国に対する筋の通らない譲歩に関してはすべて適用されるものであり、マルクス主義的な労働者利益至上主義が国益至上主義と張り合うということになると、マルクス主義への譲歩がそのまま国益の毀損につながるという、全く労働者利益にも叶わない密かなる革命が日々進行することになる。

これは、国家による自由の弾圧を正当化しかねないことになる。マルクス主義が普遍的価値観の正当化によって国民を先導するのならば、国家が国益の観点から国民を”教育”して何が悪い、ということになりかねない、ということだ。近代の革命と国民国家の成立では革命の方が先行しており、それを説明したマルクス主義から”国民”を守るという理屈は、国民国家の成立を強く補強する。つまり、結果として権力による意思への介入を正当化するのがマルクス理論なのではないか。そして実はそれは権力者にとっても非常に都合の良いものなのだと言え、さらにはそれでも歴史的観点を持つ世襲君主と、その歯止めすらない革命による独裁者とでは、明らかに後者の方が分が悪い。残念ながら、マルクス主義のもたらした現実的帰結はそんなものではないだろうか。

なんか今日もイメージと全く違う方向に進んでしまって、思い通りの方向にはうまく進んでゆかない。これがマルクス主義が政治理論であることの実践的な証明だとも言えそう。

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