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【Lonely Wikipedia】ニクソン大統領の中国訪問

前回書いたWikipediaを使っていかに調査するか、というのを、メモがてら記事にしてしまう。なんたる手抜きか。ご勘弁を。

とりあえず、気になっているテーマとして、ニクソンショック、ニクソンの訪中がどのように決まったのか、その意味するところは何なのか、というのを考えてみたい。
ではまず「ニクソンショック」で調べてみる。

ふむふむ、第1次と第2次があって、訪中発表の第1次の方は「 ニクソン大統領の中国訪問」の項を見るらしい。

なるほど。いきなり「ニクソンが中国に行く(英語版)」というのが気になってしまったが、そんなところで寄り道しているとキリがないので、とりあえず後回し。

概説に進んで、”中国共産党の一党独裁国家として1949年10月1日に北京を首都に成立した中華人民共和国”という表現は私としては違和感を覚えるが、それもメインテーマから外れるので、また別の機会に置いておく。

”多くの国は中華民国は承認するが中華人民共和国は承認しない状態が続き、”うーん、西側から見ればそうだろうが、共産圏やアジアには結構承認してた国があるのでは、と思って、

を見てみる。

中華人民共和国の国際関係」の方には、本文中にはないが、色分けされた地図で承認した国の時期がわかる。あれ、でも1950年に承認しているはずのイギリスが60年代どころか70年代を示すオレンジになっている。こりゃ当てにならん。それでも、まあソ連があるからとは言え、60年代までには面積でいえば半分位は承認していそうな印象ではある。Wikipediaにはこういう予断に満ちた決め打ちは結構あるので、そこは要注意。

中ソ対立の項は全体的にもやもやするが、このあたりはWikipediaだけでは解決しそうもない。”日米安保体制も中ソ同盟を前提として成り立っていた。”とはいうが、それはそうだろうが、そもそもサンフランシスコ講和条約に中華人民共和国どころか中華民国すら呼ばなかったのは一体誰なのか、という何とも言えないもやもや感。それはマッチポンプなのでは。

辺りも後から関わってきそう。とりあえずメモ。
中ソ国境紛争は決定的要因になったように感じる。今は印象だけ。


から70年の 

アルバニア決議

71年3月の名古屋での卓球選手権→ピンポン外交

毛沢東周恩来は党の極左派(親ソ派)、反米派を説得しなければならず、ニクソンキッシンジャーは親ソ派、親台湾派、右派の反対に配慮しなければならなかった。”この構図はたぶん違うと思う。要調査。

周恩来関係は「周恩来秘録」下巻  高文謙に依拠しているようだ。そこでこの

なるほどコロンビア大学東アジア研究所で訪問研究ということ。
さらに

には
Ezra Vogel
が深く関わり、
当時の学長は
Wilt L. Idema
とのこと。

このあたりがWikipedia調査の醍醐味ですな。

1971年7月9日に密かにヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官がパキスタン経由で北京を訪問した。”
あれ、71年といえば 第三次印パ戦争ではないか、と思ったら、12月だった。でも、それに先だって3月26日に バングラデシュ独立戦争がおきていた。
バングラデシュ大虐殺 (1971年)ひどいことです。

”当時ニクソン大統領は日米繊維問題で全く動かない佐藤首相に怒っていたと言われていて、”

後半はまだすっきりしないことが多いが、前の方から整理していかないと何がすっきりしていないのかも見えてこない。

とにかく1項目見るだけでもおなかいっぱいになるほど内容盛りだくさん。これだからLonely Wikipediaはやめられない。

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