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闘う!調理補助!!(大失敗した或る調理補助のリカバリー)

 私は、以前 勤め先の病院で 大きな失敗をしたのだった。

 そこでの厨房で、調理補助のパートをしていたのだが、取り引き先であるH病院の職員さんや、その上の人を敵に回すような言動をしてしまった……

 その、結果大変なことになった。その顚末をお話する………


 私は、ある郊外にあるH病院の厨房で 2年位前から、調理補助として働いていた。

 しかし、私はある持病(★追記に説明あります)を抱えていて それを隠しての就労である。

 さらに、トラウマもあり、主人も病気であり、近所の人も まだ引っ越して来て日の浅い私達には冷たい、と言った、
かなりの辛さの中での労働だった。


 でも、駆け落ちで、誰にも頼るわけにもいかず、私はそんな事情の中でも、以前からの友人や、明るい未来への希望を持って、気を長くして働いていた。

 いつか、……いつか、努力の方向をあやまたず、絶え間ない努力、普段の工夫、挫けず、泣き言さえ言わなければ、いつか幸せになれると信じていた。

 私の母親がそうだった様に、家庭では 妻は明るい太陽のようでいて、自分が、身体だけでも丈夫で動ければ、家庭は保つ、主人も働けるようになる、全てはうまく回りだす、
そして、今日一日を精一杯生き、その積み重ねが大事だと……

 なぜ、母は、そうしていたのだろう………

 そう、誰も………、誰も助けてはくれないから。
 その当時の私は、そう思っていた。

 その夏の厨房は、かなり蒸し暑く、まるでサウナだった。

 クーラーなんぞ、効き目がない。厨房の中は、朝から30℃以上の気温になり、湿度も高かった。

 その中で、私は朝の配膳に向かって バタバタと走り回り、慣れない工程に変わったばかりの中で 闘い続けていた。

 私の働いている会社は、6月から他社に縄張りを取られ、他の会社にH病院の調理の仕事を取られてしまった。

 私たちパートは、殆どが残ったのだが、社員は総入れ替えしてきた。

 新しい方法も、採り入れられた。

 私は、元々 根強い人間不信があり、社員さんと仕事をすると、余計な緊張が走った。

 H病院は、脳外科で、気圧の変化で急激に患者数が増える。

 その年の7月も、例外ではなかった。

 配膳にだしたワゴンが返って来ないのに業を煮やして、私は病院の職員さんに文句を言ってしまったのである。

 それが、大きなトラブルを呼んだ。

 新しい厳格なチーフの大きな怒号がくだり、私はその晩 家で泣いた。

 病院のシステムを知らなかった私の大ミスだった。

 病院側は、あくまで顧客で 我が社と一体ではないのだ。私は、取引先になんと、逆クレームを出したのである。


 仕事仲間は、注意だけで何も言わなかったが、それまで、ご厚意で、3階のエレベーターから配膳車を降ろしてくださっていた介助士さんたちまでが、軒並み配膳車を降ろしてくださらなくなった。
 元々、配膳車を1階の厨房に降ろすのは、調理補助のやる仕事だったのだ。
 私は、その仕組みを知らなかった。

 介助士さんの中で、Mさんだけが、ちゃんと2台の配膳車と、きっちりと最後の銀ワゴンまで降ろしてくださる。それは、変わらなかった。


 私は「辞める」と、言ったが、上の人は、「思い留まるように」と言った。

「山田、この会社になってから 厳しくしたが、それはオレ(チーフ)が今月で、他所へ行くからなんだ。ずっといていい、お前は、ここに残っていいんだぞ……」

 それでも、私は辞めたかったのだ。私の脈拍は 普通72のところ、43になっており、ハードな仕事で「洞性徐脈(脈が極端に低い、もうすぐで、ペースメーカーが要る)」と、診断されていたこと。(走り回りすぎて、心臓が強くなり過ぎ、かえって、普段となると、なにか不都合があるのかも知れないのだ)。

 そこまで、体調が悪くなっていたことが、私にはショックだったから。怒鳴られることは、当然だとは思っていたが、頭では分かっていても、もう、怒鳴られながらやるのも、つらい仕事も嫌だった。もっと、他に楽な仕事はあるのに……

 私は、「洞性徐脈」を最終的な切り札に、退職を願い出た………。


 あれから、1年近くが過ぎていた。

 私は、未だに、その場所で調理補助を続けていた。「山田さん、長く続けますね」とか言われたり、それは、褒め言葉だったのだけれど、私が辞める、と、言っても人員が来なかったり、引き止められたりで……それほど、人がのこらなかったのだ。

 途中、昼番にまわったりしていたが、

 また、再びあの失敗の頃やっていた、朝番をやる機会がやってきた。


 介助士さんたちは、相変わらず、滅多に配膳車を降ろしてくださらない。うちの会社に愛想が尽きたのか……。もう、相手方の会社も嫌だったのだろう。



 私は、朝の配膳をしていた。


 ぼーっと、父の事を思い出していた。


 「えみこ。シンクは使ったら、キレイに水気を拭き取りなさい」

 (ああ、お父さんは、私が若い頃、そんな躾をしていたな)

 私は、あまりやった事がなかったが、配膳のあと、食堂のシンクの水気を拭き取るようになった。
(どうせ、1分しか遅くならないし…)
しかし、最初のうちは下手で、水気が残っていたりした。

 私は、来る日も来る日も続けた。

 私の作業は、上手くなり、ある時 ちゃんとキレイに拭き取れるようになっていた。

 水滴ひとつなく………


 その日の、朝の配膳のあと



 奇跡が起きたのだ………


 介助士さんが、配膳車を降ろしてくれた………


 次のパートの時も…………


 また、次のパートの時も…………


 以前 事件の前から、降ろしてくださらなかった介助士さんたちまで……………


 私は、今では、思う。

 あの頃の私は、どうしてそんなに人を信じなかったのか。近所の人にまで 心を閉ざして。


 厳しくて、パートの仕事に厳しい目を向けていた介助士さんまで………以前は、下ろしてくださらなかったのに……


 来る日も、来る日も…………それは、続くのだった………



            おわり


★(追記)これを、初稿のときは、「持病」は、はっきり言えませんでした。もうすぐ……それか、もっとあとか、事後報告になりますが、言えますので、お待ち下さい。



©2024.5.6.山田えみこ



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