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【追悼】父へ

私の父は、神奈川県のある自治体の議員の三男坊として生まれた。

父の父、祖父は地方でも名士で、その地の名産物の開発にひと役かった人らしい。「銅像を建てさせてください」と言われたのを辞退している、とても謙虚な人だった。私は、その祖父が亡くなるころには、まだ三歳だったが、穏やかで怒らない人だった記憶がある。

祖父が穏やかだったのに対し、父は「瞬間湯沸かし器」の如く、すぐ怒る人であった。それは、幼少期の頃からと聞いている。
「〇〇ちゃん(父のこと)は、すぐ怒る」と、父の兄弟たちにも言われていた。

私が、中学生のころ、父がテレビで野球観戦をしていたとき、食卓にご飯の茶碗を置くといきなり父が激怒したことがあった。少し乱暴気味に置いてしまったようだが、タイミング悪く、野球でカッカしているときだったらしい。瞬間湯沸かし器の火が点いた。私は、父をなじったが、そんなことはしょっちゅうだった。

そんな父であったが、私たち兄妹が幼いころは全くと言ってもよいほど怒らなかった。しつけのとき以外は怒らなかった。本当は思い遣りの深い、やさしい性格であったのだろう。子供好きも手伝って理性のタガが強く働いていたようだ。私たちは、そんな父に尊敬も敬愛も充分にあった。会社を建て、工場で中心になって力仕事をしている父は、強肩で逞しく、私たち兄妹三人を同時に抱えて遊んでやるくらいの力仕事ができた。

私たちは、父が幼いころおそらく育まれ、身につけたのであろう、健康で創造的な遊びを充分にしてもらった。天井に飛行機のおもちゃを糸で貼り付け、それを追いかけ回して遊んだり、竹とんぼを作ってもらったり、竹馬を作ってもらったり(当時は、それがリバイバルのように流行ったときでもあったが、父は自分で作ってくれた)。草笛を吹いてくれたり、それは様々だった。

夏休みになると、母の故郷へ、深夜から次の昼まで車を走らせて私たちを連れて行った。

母の故郷は日本アルプスのあるところで、そのアルプスが、父の花婿候補の試験が行われた場所だという。
父が見合いの折、徹夜の列車で母の地に降りたとき、朝からその足でアルプスに登らされたというのである。

夜行列車で日本アルプスの麓まで行き、なにも知らされずにアルプスのてっぺんまで連れて行かれた。そうしたら「合格だ」と言われたらしい。母の父か親戚に「花婿合格だ」と。

「こんな田舎にこんな美人が居たものか」と、母を称した父は、その後母と結婚するが、その前に父は凄く悲しい想いをして別れたヒトがいる。父が、まだ仕事も一人前でなく「結婚しても干物が二人出来るだけ」と、心で泣く泣く別れたヒトがいる。あまり酒が飲めない父が、飲んだくれて忘れようとしたヒトだ。私たち子供は既に知る由もないヒトだが、私が以前大失恋したときには、父と共通の想いができたような気がした。大恋愛であったらしい。


父は、ほかの兄弟より「頭が悪い」と親に評価されていたらしい。私から見て全くそんなことは無かった。建てた会社の約款も考えたし、経営に必要な資格も取った。工場の据え付けの機械も自分で設計した。しかし、少年時代、学校の成績は悪かったらしい、高校へは行かせてもらえなかった。

当時は、珍しいことではない。中卒で丁稚奉公へ出た。そこで、仕事の後は押し入れに籠もって夜には簿記の勉強をした。一人前になるまで苦労をした。冷たい飯を喰って、掃除や身の回りのことのしつけもされ、やがて他の会社の営業職へ就く。

営業職では、その見映えのよい顔に反感を食ったのか、嫌がらせが多かったらしい。母と結婚して、私の兄が生まれた頃、とうとう我慢がならなくなって退職し、自分で会社を建ててしまった。その当時は、まだ「殿下」と言われる面影があって、ハンサムだった。

その後、力仕事が続き、歳を取る頃にはまるで力仕事の労働者のような風貌になっていた。会社とは遠く離れた土地にある私たちの実家付近では、新しく引っ越してきた人に「土方」と言われるほどに。
仕事が出来ない人も出てくる世の中で、私は仕事をすることので出来る人の悪口になることは言えないと思うのだが、近所の中には一流大学を出た夫婦もいて、そういう人たちからは、軽蔑の目で見られていた。

父は、名家の三男坊で、まがりなりにも社長だった。オイルショックも切り抜け、ちゃんと郊外に、その頃では破格の家を建てた社長だった。

同業者がどんどん倒産していく不景気の中でも「御社なら」と信用もあった。

ただ、父の血には、そこだけ謙虚な血が流れていたらしい。「銅像を」と言われても辞退する祖父の血が。自分が、社長であるとも、名家の出身とも語るようなことが無く、跳ねっ返りの私が自慢げな事をいうと眉をしかめ、戒めた。

ただ、その後も私は話を聞くと悔しいことが多かった。父は晩年に、近所で犬を散歩させていると「あなたの犬と私の犬が喧嘩をするから別の時間に散歩してくれ」と、新しく引っ越してきた近所の人に言われることもあった。新しく来たのだから、そこは謙虚にそちらが遠慮すべきだろう。若しくは、話し合いをする前に要求ばかり叩きつけられて、くみしやすしと見られる父は煮え湯を飲んだ。

名家の出身でも、社長に登りつめても、結局は見た目か。近所の昔から知っている人も少なくなり、繋がりの少ない街で。

父は、若い頃から丁稚奉公で、馬鹿にされることは多かったのか、慣れっこになっていたのか。むしろ、私は、若い頃から恵まれた経歴で鼻っ柱ばかり高い人よりそういう人のほうが好きである。

そんな、私たち家族でも、元のプライドは有るのか、よく「プライドが高い」と言われる。上に行く気概はある。私が、病気で挫折があり、大学入学の頃からぱっとしなくても、その心は流れていた。挫折したからこそ、得たものは大きい筈。上も下も知っているから。


療養をしながら、心のなかで灯をともし続けた私は、きっかけがあり、シナリオの勉強をし始めて、やっとグランプリの二次選考を通過した。三次は駄目だったが。あと少し。


落ちこぼれた娘が、父が亡くなる直前に、また華を咲かせるかもしれない。私は、父には懸念だったのだ。


お父さん、大丈夫。
私は、病気も落ち着いて十年以上前に結婚したでしょう?
それから、きついと言われるパートも人より長く勤めたよ?
引っ越してパートは辞めちゃったけど、今はお姑さんと仲良くやってきて、シナリオは勉強途中だけど、また仕事もするし、
大病したあなたの娘は、立派にやっていけそうです。


老人ホームで、痴呆になり始めた父母に一刻も早く、シナリオが大成するのを知らせたかったのだが。けれど、父は「二次通過」を聞き、微笑んだかと思うと、その後急に食を殆ど受け付けなくなり、一か月後には亡くなってしまった。よく怒る父だったが、最後はささやかだが微笑んだ。


七月三日は、墓に遺骨を納める。



              結び




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