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女工哀史が全てではなかった。飛騨市美術館「愛しの糸引き工女展」を見て。

今日は、飛騨市美術館で開催されていた『愛しの糸引き工女展』を見に行ってきました。

飛騨の女工さんといえば、映画『あゝ野麦峠』が有名ですよね。主人公の政井みね役を大竹しのぶさんが演じました。

これが上映されたとき、私はまだ小学生だったのですが、確か先生の引率で市内の映画館に行き、皆でこの映画を鑑賞した覚えがあります。

私たちと年が変わらない子供たち(12歳くらいから糸引きに行ったらしい)が、あんな雪深い冬の野麦峠を徒歩で越えて、親元離れて隣の信州(長野県)へ働きに行くなんて・・・と、非常にショックを受けました。

でも、この映画が上映された当時(昭和50年代)は、まだ明治生まれのお年寄りが健在で、糸引き体験のあるお婆さんが「あんな酷いことはなかった。糸引きに出ていた頃は楽しい思い出が多かった。」と語り、非常にお怒りだった・・・という話も耳にしました。

実は、私の父方の祖母も糸引きの工女さんでした。でも祖母の時は、長野県ではなく愛知県の製紙工場に働きに行っていたそうで、その頃には鉄道も通り、糸引きの仕事はかつてのような悲惨な労働ではなかったようです。祖母は28歳くらいまでいろんな製紙工場を転々としながら糸引きでバリバリと働き、結構稼いでいたとか。ところが、同じ工場で働いていた祖父と出会い一目惚れ。けれど実家の反対にあったため、駆け落ちして結婚。そして父が生まれました。

そんな風でしたので、映画『あゝ野麦峠』の元になった『女工哀史』の世界は、明治初期のまだ労働環境が整備されていない時代の話だよ…と父から聞かされました。うちの婆ちゃんは、糸引きは女でもお金が稼げるし職場は楽しかったと話してたよ…と。

確かに、過酷な時代があったことも事実です。しかし、あれが全てではなく、社会問題となってクローズアップされた後は、徐々に法律が整備され、女工たちの労働組合も作られ、労働者として手厚く待遇を受けるようになった・・・これが本当のところです。

おそらく祖母が働いていた時代は、女工達の労働条件が改善して、福利厚生も整い、非常に働きやすい環境だったのだろうと思います。

映画では過酷な状況が描かれていたのに、当時は楽しかったと語るお婆さん。本当はどっち?

ちなみに下は、今回の『愛しの糸引き工女展』のパンフレットに記載されていた案内文の抜粋です。

明治前期、飛騨地域には最大110社ほどの製糸工場がありましたが、飛躍的な成長を遂げる現在の長野県岡谷市・諏訪市方面の大工場へ糸引き稼ぎに出る人が増加していきました。明治中期から大正8年頃までは、女性達は数日かけて徒歩で野麦峠を越え長野県の製糸工場まで向かいました。
工女たちの働く環境は過酷なことに間違いありませんでしたが、徐々に労働環境の改善が図られ、大切な労働者として手厚い待遇を受けました。里帰りの際には、彼女たちが持ち帰った貴重な現金が家計を大いに助け、親から感謝と労いの言葉がかけられたのです。
現在も糸引き工女の足跡を残す飛騨市では、女工哀史の側面ばかりではなく、家族の生活を支え、経済を潤した飛騨の工女に関する歴史考証を行っています。
本展では、これまでの聞き取り、資料調査で分かった事実をもとに、家族のために一生懸命に働いた愛しい飛騨の工女たちの生きる姿を紹介します。

以上、飛騨市美術館『愛しの糸引き工女展』パンフレットより。

今回、この『工女展』に行ったことで、糸引き工女さんの実態について、初めて知ったことがたくさんありました。
映画『あゝ野麦峠』のイメージが強烈すぎて、あれが史実かと思いこんでいた部分が結構あったのですよ。ところが今回の展示会で、「いやいや、あれは話を盛り上げるためのフィクションであり、本当の事実はこっち。」ということがゾロゾロ出てきて、「ひぇー」と驚きました。

そのいくつかを挙げますね・・・。

1、飛騨が貧困地区で何もない土地だったというのは間違い。実は製糸工場がすでに100以上あった。

昔から飛騨は寒冷地だったこともあり、江戸時代には農作物の収穫で見ると「下々の国」と言われてたそうです。一応、飛騨は「天領直轄の地」ではありましたが、それは林業と鉱山があったからで、米の石高は非常に低く、そのため、他地域と比べると、どうしても「貧しい国」というイメージが根付いていました。
その観念は私たち市民の間でも昔からあって、特に昭和の戦後時代は、高山は田舎だからとか、飛騨は山ばかりで何もないとか、云々。これが都市部へのコンプレックスになり、市民の間に根深く残っていたのですよ。
そこにあの映画でしょ・・・(汗)。こんな悲惨で過酷なところでも喜んで働きに行くほど、私たちの先祖は貧しくて可哀想で不幸だったのか!・・・と、大変なショックだったわけです。

(今はお陰様で、飛騨地方は観光地として世界的にも超有名になり、インバウンドの勝ち組と言われるようになりました。最近は「飛騨ブランド」に憧れて移住してくれる人も増えているようです。こうして先祖代々から続く市民のコンプレックスも、今や自信に変わりました。)

ところが、今回のこの工女展で、明治初期には飛騨にたくさんの製糸工場があったことを知りました。なんと100を越える工場が飛騨各地に設立され、すごかったようです。
ところが、全国で大規模工場が作られるようになり、飛騨の工場は大きな都市部の工場に仕事をとられ、工場数が激減。そのため働き場所を求めて工女達が他県へ行くようになったようです。

工女さん云々・・・の前に、まず、飛騨にたくさんの製糸工場があった事実にビックリしました。
もともと江戸時代から養蚕が農家の副業として盛んだったこともありますが、明治になってわずか数年で、こんなにたくさんの工場を作っていた飛騨ってすごいじゃん!・・・と目から鱗でした。

2、冬の厳寒の野麦峠を越えたのでは無い。越えたのは田植えが終わった初夏の頃。

映画『あゝ野麦峠』では、雪の野麦峠を越えていく工女さんの姿が描かれていて、「あんな酷い吹雪の中、小さな娘さんを歩かせて山越えさせるなんて可哀想すぎる!」と、これまたかなり衝撃だったのですが、実は、あれは事実とは異なるようなのです。

本当は、田植えが済んだ後、5月から6月の新緑爽やかな頃に、野麦峠を越えたそうなのです。
それを知って「やっぱりそうでしょ!」とビックリしました(…内心ホッとしました)。
大事な働き手の工女さんを、今みたいな冬山登山の装備もない状態で厳寒の雪山を徒歩で(しかも藁靴ですよ!)越えさせるなんて、絶対に無謀だと思いましたもん。

ただ野麦峠は、岐阜県と長野県の県境で、一番高い所だと標高1672メートルです。5月ならまだ山頂には雪が残っているかもしれません。

その雪をもって「雪の中を歩いて峠を越えた」という話に仕立てられたのではないか・・・とのことでした。

(この格好で、山を越えて糸引きに行ったそうです。左が女工さんたちを引率する男性の服装。右が女工さん。)

ちなみに、年末12月には、一年間の稼ぎをもって実家に里帰りする工女さんがたくさんいて、そうした人たちは野麦峠を越えて飛騨に帰ったそうです。
でも、冬の峠を越えるのは12月のその帰省の時だけで、あの映画のような過酷な山越えではなかったようです。

また、なかには年末は家に帰らず、工場で年越しをする工女さんもいて(そこは工女さんの希望で自由だったようです)、その場合は、年が明けて、春が来て、田植えの時期になってから里帰りしたそうです。(田植えを手伝うため)

3、工女さんについて

工女さんの写真です。前列を見ると、まだ子供です。

資料によると、年齢が12歳から14歳くらいになると、女の子は糸引きに行き始めたようです。これは数え年なのか満年齢なのかわかりませんが、上の写真を見ると、本当にまだ子供の顔をしています。

映画『あゝ野麦峠』では、主人公の政井みねさんは過酷な労働状況(今風に言うと超ブラック)のなかで働きづめて無理がたたって病気になり、兄に背負われて家に帰るも途中の峠道で「あゝ飛騨が見える」と言って亡くなっていきます。

あんな酷い状態で、なんて可哀想だったんだろう・・・と全国の人々は泣きましたが(私も泣きました)、実際のところは、あそこまで酷い状態が延々と続いていたわけで無く、その後はかなり改善されて、後々はとても良くなりました。

例えば、食事は「ご飯」のおかわりは自由。お茶碗や食器も展示されていましたが、ご飯茶碗はどんぶりでした。育ち盛りの娘さん達なので、ガッツリ食べたのでしょうね。

住み込みで働くため、寝る場所は大部屋ですが、最初の頃より衛生面で改善されていき、生活の面倒を見てくれる女性スタッフも常勤でついていたようです。

また、工場では「嫁入り前の若い娘さんに働きに来てもらっているのだから・・・」と、工場内に勉強を教える教室が設置され、「読み・書き・ソロバン」の授業や「裁縫教室」が開かれていました。
ここで学んだことが工女さんの知性と教養を磨くとこになり、工女を引退して地元で嫁いでも、工女時代に身につけた裁縫や学力を発揮することができ、とても役立ったそうです。
糸引きから帰ってきた姉さんが、街の垢抜けたな雰囲気になり、妹弟に読み書きを教えたり、上手に裁縫をしたり…等々。飛騨に残った人から見ると、とても輝いていたと思います。
そんな姉さま達を見て、小さな娘たちも「私もいつかは糸引きに行く」「私も糸引きに行きたい」と憧れたそうです。

その他、休暇日には、工場の事務に申請するとお小遣いがもらえたそうで、もらったお小遣いで友達と映画を見に行ったり、うどんを食べたり、電車に乗って街に出たり・・・等。娯楽もありました。

さらに時代が進むと、工場ごとにテニスコートや病院を設立するようになり、工女さんの福利厚生も充実していきました。

ちなみに、給料は一年に一回「年収」でポンと支払われたそうです。

当時「100円工女」と賞される工女さんがいて、毎年、工場で表彰されていました。表彰のお祝いに工場から漆塗りの鏡台や裁縫箱を贈られ、それらを90歳で亡くなるまでずっと大切に使われた工女さんもいらっしゃったそうです。

この100円という金額の価値。今のお金にすると、いくらなのでしょう?

そこで、この展示会で説明をしていた人(飛騨の語り部さんで工女さんの歴史を語っているボランティアの方)に聞いてみたところ、「100円で新築の家が建つ」とのこと。つまり、今だと(軽く見積もっても)1000万円以上の価値だったようです。今のお金に換算すると、だいたい8桁のお金を一年で稼いだことになります。
今風に言えば「億女」という感じでしょうか(汗)。

工女さんは皆さん、10代始めに糸引きに出て、10代の終わりに引退。20代になる頃には結婚して嫁に行ったそうですが、結婚した後も、嫁ぎ先の舅さんやらに「田んぼを買いたいから、申し訳ないが糸引きにいってくれんか」と頼まれ、糸引きに出た人もいたそうです。今でいう「単身赴任」の走りみたいなものです(汗)。

こうして稼いだお金をもって家に帰ると舅さんも姑さんも喜んでくれて、お給料袋をそのまま神棚に上げてお奉りし、手を合わせ、嫁さんの工女さんには「ありがとう、ありがとう」と家族皆が感謝したそうです。

それが嬉しくて、働きに出た・・・と、当時を語る方の証言に、そうした事実がたくさん残っているそうです。

4、なんと!労働組合があった

大正時代になると、地元の飛騨地域で、工女さんのための工女組合が設立されていきました。

明治の終わりに法律ができて、工女さんの労働環境の改善が法でキチンと決められたそうですが、工場の中にはなかなか導入しないところもありました。そこで工女さんの労働組合ができて、工場と掛け合い交渉するようになったそうです。

労働組合設立の力になったのが、工女さんの地元の飛騨地方の人たち。

地元の工女さんが働いて稼いでくれるお金が、その村の年間予算の1.3倍になる時もあったそうで、村の経済にとって工女さんの存在は、非常に大事なものでした。そのため工女さんの労働環境を守るために、地元の村で工女さんのための労働組合が設立されて、工女さんが働いている他県の工場に実際に働きかけ、労働環境の改善に向けて活動されていたそうです。

ちなみに、問題になった頃の工女さんの労働時間は、長くて14時間。14時間というと、朝8時から休み無く働かされて夜10時頃までになります。現代のブラックな職場もこれくらいだよね・・・と思ったら、何だか令和の今も「女工哀史」と変わらないんじゃないか・・・と思ったりもしました。

でも、まさかこんな昔の時代に労働組合が作られ、かなりの人が加入していていて、彼女たちも一労働者として大事に優遇され、手厚く守られていたのですよ・・・。これは知らなかったので、非常にビックリしました。

最後に

飛騨の工女さんというと、非常に悲劇的な存在のように思われていたと思いますが、実際に糸引きにいっていた人の話によると、決して悲しい話ではなく、青春時代の楽しかった思い出・輝かしい思い出・・・になっている人が、とても多いのです。

今回、「そういえば祖母も糸引きに行っていたなぁ」と思い出し、ちょうど今日までの開催だったので見に行きましたが、初めて知ることも多く、『女工哀史』とは異なる側面をたくさん学ぶことができました。行って良かったと思いました。

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