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義母の散歩

昨日は、義母(姑)の月一回の「内科」の診察日でした。

義母は、私が嫁に来たときから、ずっと家の近くにある個人医院に通っていて、高血圧やその他のお薬をもらって飲んでいます。

家から数百メートルほどのその病院に、以前の義母はずっと一人で(歩いたり、自転車で)通っていましたが、数年前に足を骨折してからは、その数百メートルを歩くことが難しくなり、私が車で送迎しています。

そして昨日。

いつものように車に義母を乗せて、病院に向かいました。

病院では義母は一人で診察を受けています。

以前(骨折して以降)は、私が診察室までずっと付き添っていたのですが、義母の希望により、今は付き添っていません。最近は(リハビリの成果で)杖で歩けるようになり、また、小さな個人病院なので、年寄りが歩くのにそれほど困難が無いため、今は私は「送迎」だけお手伝いしています。

病院の玄関まで義母に付き添い、そこから先は義母が一人で受診します。ちょっとした移動(数歩のこと)は杖を使って自立歩行できるので大丈夫です。その後、診察が済んだら、看護婦さんが自宅に電話して下さるので、義母をお迎えに行く・・・というシステムです。

それに、義母も子供ではなく「大人」なので、その意思をなるべく尊重したいと思うのです。もちろん御年90歳なので、年相応に脚力が低下していて転倒が心配だけど、今は少しなら自立歩行はできるし、認知症は全く無くて私よりしっかりしているし(汗)、何より、待合室でいろんな人と会ってお喋りすることが義母には良いみたいです。嫁の私がそばに居ると、義母の話し相手のお婆さん達もいろいろ気を遣い、ゆっくり話せないこともあるみたいです(笑)。

なので昨日も、義母を待合室において、私はいったん自宅に戻りました。

数分後・・・。

家事をしていたら、なんと家の内線電話が鳴りました。

「え?」と驚いて出てみると、なんと義母でした。

インフルエンザ予防接種の問診票を忘れたので、家まで歩いて取りに戻ったとのこと。えっえええええ!ここ(家)まで無事に歩いてきたってこと?!

「(病院から)家まで歩いて戻ったんですか?足、痛くないですか?大丈夫でしたか?」

・・・と、私はものすごくビックリしたのですが、義母は飄々とした感じで、

「杖をついて歩いて帰れたから大丈夫。今度は歩行器で病院に行ってみるさ。帰りも自分で歩いて帰ってみようと思うから、お迎えはいいよ(いらないよ)。」・・・とのこと。

一瞬、大丈夫かな?・・・と心配になりましたが、以前から「家から病院まで、自分の足で歩いて行ってみたい」と話していた義母です。それを目標にして、ずっとリハビリを頑張っていたので(今は「デイサービス」先での訓練と、自宅での「訪問リハビリ」で継続中。でも、病院への徒歩通院は、リハビリの先生から「転倒の心配があるので(歩行器を使っても)実際には難しい」と言われていました。)、そんな義母の気持ちを汲んで、義母に任せることにしました。

◇◇◇

こういう時の判断って、子育て中の「子供にどこまで任せてやらせてあげるか」に似ているなぁ・・・と、この時ふと感じました。

ついつい「危ないから」「心配だから」と全てを取り上げて、手取り足取り世話を焼いて全部やってあげることが「愛」と勘違いしている人が多いけど、本人の自主性と主体性をどこまで認めてあげるのか・・・ということ、ここにこそ「本物の愛」の器があると思うのです。

でも、いざそれをしようと思うと、「何か」が自分の心の奥から突き上げてきて、行動を阻止してくるんですよね(汗)。この「何か」の正体について、私はずっと考えてきました。

ちなみに、私の育児期間は、障害を持つ我が子に対して、どこまで(本人に)任せるかで、いつも心がせめぎ合っていました。健常児に対してでも「どこまで任せてやらせるか」とせめぎ合いがあるのに、健常児より制約の多い障害児だから、ますます「親の判断」が難しくなります。

モデルがないので、自分で「どこまで許すのか」のさじ加減が本当に難しいのです。でも、私なりに「ここまで」の枠をジワジワと広げていき、最後は「親からの自立」まで、こぎ着けることができました。

この加減と塩梅・・・。ここを習得することが「親の修行」じゃないかな・・・と思うのです。このさじ加減を身につければ、対人スキルも格段に向上します。より良い人間関係を築くのに、相手の意思をリスペクトして黙って見守る・・・というスタンスは、ものすごく重要なことです。

◇◇◇

ところが、こうして子育てを終えて「やれやれ」と思ったら、今度は高齢の義母に対して「どこまで任せるか」のせめぎ合いが復活しました。ここでも「心のせめぎ合い」・・・?正直、ヒェー!という気分です(汗)。

でも、私は我が子の育児のとき、この「せめぎ合い」の正体について考えた経験が、今ものすごく役立っています。そう、腹のくくりがあるか否かが重要ポイントだと気づいたので、今もただただ「腹をくくる」「覚悟を決める」を実践しているところです。

そう・・・、子供に任せて何かあったとしても、親として、どんな結果も・人からの意見批判も、全てを受け止める覚悟があるかどうか・・・です。

この「腹をくくる」について、何に腹をくくるのかといえば、つまりは「失敗するのが怖い」「上手くいかなかったとき、人からダメだしされるのが怖い」という気持ち(エゴ)。これに対して、いざというとき「私がそうしました」と全てをかぶる覚悟が出来ているか・・・ということ。この時、少しでも「逃げ」や「保身」の気持ちが残っていると、腹がくくれないのです。

腹がくくれないから、手を出し、お節介を焼き、「私がやってあげているのよ~」アピールをしちゃうんですよね(汗)。そうです、「自分のエゴ」こそが、せめぎ合いの正体だったのです。

要は「良いお母さんというレッテルを剥がされたくない」という欲・・・だったと言うわけです。

◇◇◇

そこまで突き詰めた私は、そこで「いいお母さんになる」ことを止めました。世間体や人の意見に流されない、自分で決断して「こうする」と決めたことを腹をくくって貫く親になる・・・と決めたのです。

「良いお母さん」道を止めて、常識的なレールから逸脱していったら、変なプレッシャーが無くなり、心が自由になりました。人と比べる必要も無いし、人に合わせる必要もありません。自分たちで「どうするのか」を決めていくだけです。

結果、何が起きても「私たちに必要な体験」と受け止めて何事もポジティブに対処していくことを心がけたら、子供はどんどん自立していき、いつの間にか親元から巣立っていきました。親の手元に子供を置くのではなく、親元から切り離して手放していくことで、子供は子供の人生を歩き始めたのです。

この体験から、結局のところ、「良い人と思われたい欲」が、何でもカンでも手を出して全部やってあげて世話を焼くマメな母親を作りあげているんだな・・・と確信しました。

◇◇◇

そして、これは年寄りに対しても同様なのですよ・・・ね。

「子世代は、親の世話(介護)を親身にやらなくてはいけない」という刷り込みが強いと、余計に「良い人と思われたい欲」が発動してしまうようです。

実際、こんな90歳を過ぎたヨボヨボの老婆を一人で歩かせたら、世間から「どうして一人で歩かせるの?」とか「あの家の家族はどうしているのだ?」とか「鬼嫁」とか「年寄りネグレクト」とか、いろいろ言われそうです。実際、炎上ネタになりそうな風潮。些細なことでも攻撃対象になりうる時代なので、いつ自分もターゲットにされるんじゃないか・・・とオドオドしてしまいます。責められるかもしれない・・・という変な恐怖心が沸き起こり、ますます「世話焼き」が過剰になっていくのだと思います(汗)。

・・・が、これらも全て「エゴ」なんですよね。エゴのぶつかり合い&エゴのせめぎ合い、なのですよ。

◇◇◇

「うちの婆ちゃんにそんなことをさせたら可哀想だ・・・」という建前。でもその奥には「年寄りを大事にする良いお嫁さんだね・・・と人から認められたい」欲が渦巻いていて、欲が勝るから、それで、ついつい年寄りに世話を焼いてしまう訳です。

老人が自分から主体的に取り組んでいること・自分で自立して出来ることでも、子世代が「そんなこと年寄りにやらせたら体裁が悪い」と感じようものなら、すぐに全部取り上げて、お膳立てして勝手にやってあげて、年寄りの気持ちをスルーし、それで「面倒見のいい素晴しい嫁」という称号をゲットしようとする・・・。こういうことって、結構多いのではないか・・・と思うのです。(この「嫁」の部分は、「婿」「娘」「息子」でもイケると思います。)

◇◇◇

「歩いて病院に行ってみる」という義母の提案に対して、ふと「大丈夫かな」と一抹の不安を感じたものの(転倒とか交通事故とか)、義母に一任することにしました。

第一、私はとうの昔に「いい嫁」は止めたので、「あんな高齢の婆ちゃんを一人外で歩かせるなんて・・・」と悪く受け止めてコソコソ言う人がいたとしても、私はへっちゃらなのですよ(笑)。そこにポイントは置いていなくて、この時は、婆ちゃんが「自分一人で道を歩く」という経験を得ることを大事にしようと思いました。ここは腹をくくって、義母が「自分で歩きたい」という思いをリスペクトしたのです。

ありがたいことに、この日は温かい晴天。穏やかな秋晴れで、暑くもなく寒くもなく、年寄りの散歩にはちょうど良い日和。

なので、何かあったときには連絡してもらうことを約束に、義母の意思を尊重してお任せしました。

◇◇◇

その後・・・。

義母は無事に帰ってきました。良かった良かった♡。

だけど、途中で、ご近所さんに歩いている姿を見つけられて、何人かの人が「大丈夫か!」と心配して、義母のところに走ってきたそうです。

そこで立ち話になり、随分長い時間、道々で立ち話をしたようです。

義母曰く、

「歩くことは大丈夫やったけど、ずっと立ち続ける・・・というのが大変やった。」とのこと。

相手は義母の姿を見て元気そうだったので、義母の足なんて一切気にせず、長い時間ずっとベラベラとお喋りされていたそうですが、当の義母はだんだん足が疲れてきて立って居られなくなり、大変だったようです。

で、ようやくお喋りから解放されて歩き始めると、また違う人に目撃されて「久しぶりに見た~!元気やったかな?」と話しかけられて、また立ち話・・・。こうして家に辿り着くまでの間、いろんな人と話をしたそうです。

まぁ、皆さん、久しぶりに義母の姿を見て、ビックリしたのと嬉しいのとで思わず声をかけて下さったと思うので、とてもありがたかったです。

でも、この時の義母の様子から

足の悪い人を立ち止まらせることは、足に負担がかかるので、良くないことなんだなぁ

・・・と気づきました。

なるほどなぁ。これって、足が悪くない元気な人にはサッパリ分からない「新しい視点」だなぁ・・・と。いいことを教えてもらえたわ。私もこれからは気をつけよう。配慮しよう。

義母の話を聞いて、初めて気づかされました。久しぶりに歩くという体験があったからこそ、見えてきたこと・気づけたこと・・・。「経験する」って大切なことだな~と感じました。

◇◇◇

今日の義母は、昨日の疲れが残っているようてすが、チャレンジして心に自信がついたようでした。

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