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距離感

人との距離感が分からない。
特に彼との距離感が未だつかめない。

もっと分かって欲しい、心配して欲しい、助けて欲しい。
欲は海水のように、喉の渇きを更に誘発する。
この歳で急に恋人ができ、よき理解者を得たら、相手への依存や執着が泉のように湧き出てくる。先述した精神的な自立ができていないことを否が応でも感じてしまうのだ。

一体私は何を求めているのだろう?

経済的なヘルプは今のところ必要としていない(自分の稼いだ金で堂々と好きなものを買いたいし、経済的に相手に頼る不安定さを結婚時に思い知った)。
苦しい時に味方になってくれる人…、これはもう満たされている。日々の仕事、家事、育児にまつわる愚痴を散々聞かされている彼の身になってみれば、私は非常に自己中心的な人間である。

しかし、本当に欲しいものが得られていない漠然とした苛立ちと寂寥感。
その何かを言語化することを拒否する自分がいる。何故ならそれは自分の弱さや無力さを露呈することになるから。

必要な時に側にいてくれて、辛い時に寄り添ってくれて、家事も育児も手伝ってくれて、好きなだけ甘えさせて欲しい。
…なんてワガママな欲望を口に出せるはずがない。
しかし私が求めているのはそういうことだ。
我ながら情け無さすぎる。

何年も精神的に誰にも頼らず反骨精神は醸成されたと勝手に思っていたが、全くそうではなかった。矢沢永吉の成り上がりを読んで共鳴していたが、私はただの寂しがりのかまってちゃんのままだった。

「好き」と言われただけで、その先の未来を相手に託そうとしてみたり、勝手に期待しては私の真髄に踏み込もうとしないどっちつかずな態度に失望したり、空回りしてばかりいる。

端的に言うと彼は安全地帯で私との関係を楽しみたいだけなのだ。
お互い離婚経験者だが、育児をしたことがない彼には私の辿ってきた苦労が分からない。
現在進行形のマルチタスクに追われる生活も、脳がひと時も休まらない週末も分からない(想像はできるが体感として理解できない)。
所詮、自分の領域に相手を引きずり込み、好意を履き違えて背負う必要のない苦労を共有させようと思うこと自体が傲慢なのだろう。

それでも、である。
もっと安全地帯から離れて、リアルな日常生活を共有して欲しいと願う私はワガママなのだろうか。

頑張ってるね、偉いよ、など私の涙腺を刺激する言葉にこれ以上期待してはダメなのだろうか。
自立した大人の女性として凛とした姿を期待しているのだろうか。
何が正解で何が許される行為なのかが分からなくなる。分からないから悩んで落ち込んで自己嫌悪に陥る。こんなに悩むならいっそひとりになりたい。そう思う日が増えてきた。

子供や親の関係で再婚を望まない私は、彼にこれ以上ワガママは言えない。
彼も私の複雑な事情を理解し、精一杯妥協してくれているから。
しかし、その優しさの一方で、以前と変わらぬライフスタイルを貫く(ほぼ毎週友人と飲み会で独身貴族を謳歌)彼を見るのが正直嫌いだ。
全て請け負えとは言わないが、もう少し私の領域に歩み寄れないものだろうか。
このもどかしい気持ちをうまく処理できないまま、私の心はいつも小波のようにざわついている。


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