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好きになりかたはトイロ

 オタクやってると、「好き」という気持ちを表す方法がすごくたくさんあることに気づく。

 現場に行く(ライブとかイベントとか)こともそうだし、ものを収集すること(グッズコンプとか)、経験を共有すること(レポまんがとか)、聖地巡り、製作者へ迫ること、ファンとしての創作、人生の意味の見直しなどなど……生命体のあいだで「愛情」を交換するときに、一般的に共有されやすい「告白」などの手段に帰納しきれないようなありとあらゆる方法で、「オタク」は「オシ」へ愛情の表現をする。これは相手が生殖対象でないがゆえに、本能から解き放たれて表現の幅を広げているのではないかと私は思う。

 「オタク」にまつわる歴史的なネガティブ認識はさておき、今の世の中「オタク」の対象もすご~く幅広くなって、私はとりあえずこの語を

「オタク」:自分と生殖的接触を持たない他者に対する愛情を持つひと

と定義している。「オシ」は「推薦する」という意味を超えて

「オシ」:自己と生殖的接触を持たないが自己の一部を献じて愛する対象

と定義している。ここで言う「生殖的接触」は性行為だけではなく、生体として接触すること、肉体的ふれあいが可能であること、血族であること、同軸の世界にいること、そのものと一体化すること、を広く指している。自分としての「オタク」の対義語は「バカ」で、「バカ」は「オシ」との「生殖的接触」がある状態で愛することを言う…と思っている。ただ「対義語」といい切れるほど対称関係にはなくて、「野球バカ」「釣りバカ」のような、対象との境目が曖昧な場合もある。


 オタクのオシに対する行為は十人十色であるが、表現行為である以上やっぱり共感を生みやすいかそうでないかという意味での「人気」は存在する。トレンドになりやすいかどうかっていったほうがいいのかな。そもそも表現としての作品が人に共有されうるのは、その人のどこかのベクトルに「共鳴」するからである。これはどんな芸術も変わらなくて、だから「人類共通の至宝」として「芸術」がありうるのだと思う。幅広い人類に共鳴する作用を持つ「芸術品」はそれもちろん「人類共通の至宝」だからね。共鳴・感動…もろもろ言い方はあるけれど、「美しいもの」に限らずアウシュヴィッツとかゴッホの一生とか、そういうのも含んで。

 ともすると、この「共鳴」されやすい「オシ行為」が「正しいもの」のように認識されることがある。そうではない、と声を大きくしていいたい。そうではない。そうではない。そうではないんだ。

 共鳴されやすさが価値に繋がる傾向は、「動物がどうやったら生殖的接触を持ちやすくなるか」の工夫につながるような、本能的価値観だ。できるだけ多くの子孫を残すために、人から見向きされたいという欲望は悪でも何でもない。ただの本能だ。モテたい。チヤホヤされたい。認証欲求。いろんな言葉で表されるし、認証欲求なんかナルシシズムと混同されて悪の権化みたいに扱われてた時期もあるけど、全部ただの遺伝子的作用だ。生命がみんな持ってる。

 でもだからこそ、それを捨ててもいい。自分だけの愛しかた、いいじゃん。誰にも共感されない、ひとりだけ洞窟にこもったようなオシのオシ方、唯一無二で最高じゃん。だれにも共有されないよ。だけどその分誰にも邪魔はされない。寂しいよ。それでいいんだ。オシと私のふたりきりというのは常に寂しい。だってオシとは生殖的接触を持てないんだから。体は冷たくなっていく。言葉は汎用性を失っていく。いいじゃん。オシと私がしゃべる言語さえあれば、ほかがいらないと思えるような洞窟を自分で自分の砂漠の隅っこに掘っておけばいいんだ。

 「人を感動させる」オシ、いいよな。私の人生を凄まじく動かしたオシ、最高だよ。人生が華やかに、あざやかにかわって、毎日夜寝るのが惜しく、朝起きるのが待ち遠しい。それをくれたオシに、オタクが本能から離れたオタクとしてできるたったふたりきりでの愛情のかたち。それが共有されて悪いと言ってるんじゃない。それが共有されることは本能だ。人間も動物だから本能的生体なんだ。だからそれから離れているからといって、それも悪ではないんだ。みんな、オシとオタクのあいだで起きているふたりきりの現象である。


 仕事柄?なのか、好きになる方法が人と違って怖いという相談を受けることがある。その「怖い」は、人と同じでいられない自分への怖さだ。または人と同じでいられないことによって生命活動が絶たれるのではないかという怖さだ。それがにじむ相談者をみて、言葉をかけて、いつも思う。好きになり方は十人十色だ。そしてたぶんそのやりかたは、人とお別れをするときの方法にとてもよく似ている。



 私はとても…ひとと違うひとの愛し方しかできなかったし、初めて自分からお別れをしようと思ったひととのお別れ(祖母です)からこちら、葬儀や告別とも違う独特の方式でお別れを述べることにしている。好きになった人も、まったく同じやり方で好きになる。私の砂漠の終わりにはたくさんの洞窟があって、たくさんの像がいきいきと生活している。

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